弱いことも一つの特性であることを理解する

いつも損な役回りになってしまうんです。

人にいいように使われてしまうんです。

みたいな相談を受けることがたまにあります。

 

いきなり残念な話から始めると…

生物には生まれつき優劣がありますよね。

体が大きかったり気が強く生まれたタイプは多くの食料を獲得することができたりと、生き延びる確率が高いだろうと思います。

こういうことは人間社会でもあまり変わらないなあ、ルールに沿ってはいるけれどやっていることはほかの生物とあまり変わりないなあ、なんて思います。

でもそういう競争を外側から見てみると、小さかったり弱かったりすることや、

人間だったら対人関係が弱かったり、人間が怖いというような、自分を嫌いになってしまいそうになる性質すら、自然の法則の中では重要な役割の一つかもと思うことがあります。

 

たとえば鮭の卵は、雨があまり降らなかった年に川が干上がってしまっても、不思議と全滅はしません。

鮭の産卵場所は条件が良いところから当然強いもの順に決まっていくわけですが、そうなると弱い鮭は産卵場所がないので、残り少ない体力を使って傷だらけの体でさらに上流まで上らなければなりません。

でも川が干上がってしまうときに残るのはそういう上流の卵だったりして、その川の鮭は、その弱かった鮭のおかげで全体として生き延びることができるわけです。

 

自分が弱いと感じている人は、それを直したくて仕方ないと思います。

わたしも交渉なんかに負けるたびにそう思ってきました。

そういうときは「もっと強くなるぞ」と心に誓うわけだけど、でもその嫌な気持ちの原因は、弱さよりもそれについての罪悪感だったりします。

自分が周りの他よりも弱いと気づいたら、そこに留まるのをやめればいいだけで、たいていはそれしか選択肢はありません。

でも罪悪感は、さらに上流に登らざるを得ないような状況で、そのための力を奪ってしまいます。

鮭なら何も考えずに運命を受け入れて上流へ向かいますが、人間の場合はいろいろな思考が邪魔をして動けなくなってしまいます。

自分で自分が弱いことを自覚することができてそれについて延々と考えることができるなんて、人間の人生は生物としてあまりにも酷ですよね…。

 

ただそこからもう少しだけ深く考えれば、そういう負けも、まだ誰も行ったことのない精神的な支流へと自分を向かわせる動機になっていたりしていて、

弱いなら弱いなりに生きることを受け入れることができれば、新しい生き方を見つけることができるかもしれないし、精神的にも新しい快適な境地へ行けるかもしれません。

人間の場合は、弱いこと=即不幸とならないところが、ほかの生物とは違うなあ、救いだなあと思います。

そして罪悪感の元となった生物として致命的な性質であるはずの「弱さ」を、新しい境地に辿り着いてから振り返って「それが自分の役割だったなあ」と理解できたり、さらには「むしろギフトだったなあ」なんて思えるのも人間ならではだと思います。

でもまあそう思えるようになったのは、長い生物の歴史から考えればごく最近のことです。

だから強くなる以外の情報はまだまだ足りていません。

自分が弱いことに悩んでいる人は、自分も一匹の生物に過ぎないのに強さなしで人生をやってみようというクレイジーなチャレンジャーである自分を、もう少し誇りに思ってあげてもいいかもしれません。笑

 

 

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