自分とは何者か?~新しい時代の自分の探し方

これまで自分のエゴを抑えることを世界一がんばってきた日本人は、

そうやってがんばることにはもう疲れてしまっているのに、

一方で表面化していない自分や社会のエゴはまだまだ深そうで…

自分たちはさらにもっと理性のパワーを上げてブレーキを踏まなければならないのか?

それとももしかしたらもうアクセルを踏んでもいい時期に来ているのか??

…困惑している時代にあるかなあという気がします。

 

 

欧米では自己の拡大を目指す「エゴ」が肯定されることが多いのとは逆に、

日本人はこれまで、自分のエゴを抑えるための「理性」を「自分」だと考えてきたように思います。

そんなエゴと理性は、脳内では対立する関係にありますが、

観察してみると、理性は「自分はエゴを抑えるためにしか存在していない…」「自他のエゴが問題を起こしてくれないと自分には存在価値が生まれない…」というようなことを恐れているようなので、

理性はエゴに存在を依存しているとも言えます。

「生存本能であるエゴ」と「自分という存在感を漠然と感じる自意識」のどちらとも言い切りづらい「理性」には、なんとも言えない実体の無さを感じてしまうことがありますが、

「あなたは何者ですか?」と聞かれたときに「わたしは真面目です。」と答えるのは、なんとなく悲しい気持ちになってしまう時代に、いつの間にかなってしまいました。

強い理性によってエゴを抑えることに成功するほどに個性も失ってしまったりと、

現在の日本人のアイデンティティクライシスは、そのあたりに悩みの根っこがあるかもしれません。(バブルのころはみんなでエゴ全開でアホにもなったけど、個性やクリエイティビティも美しかった)(そして現在はそのころの遺産で物心ともになんとか食いつないでいる)

 

 

でも、考えてみると理性とは、エゴを抑えることで自分の存在感を感じる、同じくエゴ=生存本能です。

ただ、動物的な分かりやすい生存本能よりは少し新しくて、

他から奪ったりするだけではなく群れの中で問題を起こさないことが自分の生き残りにつながるということまで計算ができてしまったり、

あとは多数派にとってのリスクになりかねない異質な者を排除する機能もあったりする、

一つ上のレベルの生存本能です。

それらをまとめてエゴ(旧+新生存本能)と考えると、理性が強い人とはエゴが強い人ということになり、

その場合は旧いエゴと少し新しめのエゴが自分の中で戦っている状態にある…と言えます。

さらには、綺麗事を除けばこの世界はまだ弱肉強食の世界なので、動物的な生存本能は現実的にわたしたちの生活にはまだまだ必要なこともあって、

ときに自他のエゴを抑えるために自分の生存本能を弱めようとすらしてしまう理性は、

エゴとの戦いだけでなく、自分自身の存在の矛盾にも苦しんでいます。(自分もエゴの一種であることに気がついていない。自分もエゴなのにエゴを否定している。自己嫌悪に苦しんでいる。)

 

 

世界はぼくらが感じるよりもはるかに平和だそうですが、

(スティーブン・ピンカー: 暴力にまつわる社会的通念|https://www.ted.com/talks/steven_pinker_the_surprising_decline_in_violence?language=ja

社会が平和でみんな幸せなら、理性の出番は少ないものです。

そんな時代に生きる理性は、もしかすると社会に平和にはなってほしくないし、自分も幸せにはなりたくないと、無意識にも願ってしまっている可能性があります。

自分の役目が無くなる流れを感じてしまっている理性が、自分の存在意義へ強く執着する別のレベルのエゴに変異してしまうと、ときに危険なものです。

 

理性は、人間が農耕生活を始めたころに脳内で発達したのかなあと想像ができますが、(村のみんなとうまくやるためと、あとは農耕生活は狩猟採取生活と比べて、苦しんででも理性を使わないとできないほど人間にとっては難しいし、本質的に合わないため)

これまでがんばってくれた理性にはかわいそうな話だけど、その引退のときは意外と近いのかもしれません。

 

 

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自分の中の動物的なエゴとは、文字通り動物のような感覚の生存本能ですが、

そんなエゴは、ペット扱いをしてあげるとじつにかわいいものです。

そうやって親のような気持ちになって、まるで子供のようなエゴのめんどうをみるようになると、

エゴは健全に育った子供や満たされているペットのように、無駄に問題を起こす必要がなくなるだけでなく、

自分の存在を肯定的に感じられ、=幸せに生きられます。

 

自分の中のかわいいエゴを「これも含めてわたしなんです」という気持ちで徐々に赦していき、一方で理性を安全を確認しながら少しずつ減らしていくと、

無くなる理性の分だけ心の中に空きスペースが生まれます。

それはコントロールを失う感じで怖いものではありますが、あえてそのままにしておくと、

そこにエゴと自然にバランスするなにか新しいものが流れ込んできます。(→気分が良くなります)

それが理性と入れ替わるように自分の中でエゴと自然に合わさったものが、

我慢や統制や強制といった理性を必要としない、「新しいタイプの人間性」ではないかなあと想像します。

 

そして、そんななにも抑える必要がなくなった自分は、「100%の自分」「本来の自分」と言えるのではないかと思います。

(=すでにそういう新しくて自由な仕様で生まれてはいたけれど、旧いOSで動いていたことに気がついた感じ)

 

 

 

8歳児のエゴと天から流れ込んだ新しい人間性がなんの制限もなく合わさって100%になった人間の実例…

=全開で無敵でかわいい二人…笑

 

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