親と和解するための8つのヒント

これはわたしの解釈ですが、親と和解するのは「自分のため」です。和解するといっても一般的にイメージするような、抱き合ったりする感じになる必要はなく、ただ相手を理解するだけです。

親があなたを傷つけようとしたり追い回したりするのをやめてもらおうというよりも、そうであることを受け入れる方向へ考えてみる。「それはそうなるよねえ」というようなポイントを探してみる。

そうすると、親がそうなのは必然であることが理解できていき、またそうなれると、自分がそこから逃げたいと思う気持ちもまた変えられるようなものではないことも理解ができていきます。

要するに、親の在り方を理解するということは、自分の在り方を理解するということであり、それができて初めてお互いに自由になれるというわけです。親は追いかけていいし、自分も全力で逃げていい、のです。

和解や癒しというのは、要するにそういうことではないかなと思います。

親の成り立ちを理解する

親が育った時代背景を、ぼくらは知りません。今では常識なことが昔は違った、というのはよくあることです。

たとえば、ほんの数十年前までは体罰がありました。体罰をする方が正しくて、される方が悪いという考え方が常識だったなんて、現代からは想像ができないほどの違いです。

だから自分の親は、自分が想像もできないほど異なる世界で生きてきた人間と言えます。

ちゃぶ台がひっくり返された時代に育った人が、自分がひっくり返さないおやじになるのは、手が震えるくらい難しいことなんじゃないかなと想像ができます。(書いていて思い出したけど、わたしの父はひっくり返さなかったなあ…!手は震えてたけど…笑)

親の大半は遺伝でできている

親が全能だと思うのは、子供の勘違いです。最近の子育ての考え方の中には、「親も完ぺきな人間ではない」ということをオープンにすることは悪いことではない…という考え方もあるそうです。(たとえば上から押さえつけるよりは、対等の権利を持った者同士がハンデも考慮したうえで対等なレベルでけんかする方がいい…という感じで、いろいろと補足はありますがわたしは基本的にそれに賛成です。)

親に反発しながら生きてきた人も、自分が親になると、自分もほとんど同じタイプの人間になってしまうことが多いものです。わたしも、気が付いたらびっくりするほどそうなっていて、ショックでした(苦笑)。

でもそれは親も同じで、そもそもほとんど同じ遺伝設計図を基に創られたのだから、同じ家系なのに全く違う人間になろうと考えるのは非常に無理がある…と理解した方がしっくりきます。親もきっと、変わろうとしたけど思うほど変われなかった、自分と似たような一人なのです。

親から去る

親から去ることも、和解と言えると思います。

親は表面的にはどう考えていても、子供にはより良い人生を送ってもらいたいと思っています。もし全然そう見えなくても、親自身が意識していなくても、親はよりよい子孫を残すことを目的に生きています。

これは親がどういう人物であったかはあまり関係のない、もっと生物としての本能のような話です。あまりにスケールが大きすぎて、ぼくらが理解できないだけです。

だから、親を憎んで去るようなことすら、そういう大きな流れの一部と言っていいと思います。親は自分が居る場所が不幸だと思っているほど、子供に辛く当たる傾向があります。それは「自分のいるところから出ろ!」という無意識のメッセージと捉えても興味深いです。

自分が去ることについての世間体や罪悪感などは、また別の問題だと理解します。

厳しくなってしまう親の心理

親やご先祖さまは、昔、生きる道が1つか2つくらいしか見えない時代に生きました。選択肢がないという感じは、すごい恐怖だったと思います。

村から出ることなんてあり得ない…、出たら生きていけない…、だから嫌われちゃいけない、変だと思われちゃいけない…、なんとしても周りとうまくやっていかなければならない…

親がそんな言葉にもならない危機感をベースに自分の子供に接してしまうのは、自分の子供もそういう危機感を持たないと生き延びれないと信じ込んでいるからです。

今はもうずっと自由な世の中で、選択肢もたくさんあるわけだけど、親はそのことには気が付いていないのです。(DNAのバージョンが古いのだから仕方がないのです)

親も自分が生きるのに一生懸命

親も生命なので、自分が生きるのに一生懸命です。

生命が危機を感じると、脳は自動的にサバイバルモードに入ります。サバイバルモードに入った親は、もう違う人間になっていて、人間というよりも動物に近い状態です。

だから自分の感情を害するものは許せないし、自分にとっての脅威だと感じると、自分にとって大事な相手であっても見境なく攻撃してしまいます。

でもこれは人間が自分でたとえば「優しくなろう」と心がけたくらいでどうにかなるような問題ではありません。

自分の脳のサバイバルモードへの入りやすさは、生まれ育ちに大きな影響を受けています。頻繁にサバイバルモードを活用せざるをえなかった育ちなら、それはもう常駐プログラムになってしまっている可能性があります。

親の人格について考えるときは、親の生まれ育ちも含めて考える必要があります。

罪悪感の出どころを理解する

親への義務感が強い人は、その義務感は親の都合によって生み出されたに過ぎない…と理解できるといいと思います。

昔は生活が困窮したとき、山に老人を捨てたそうです。で、それが悪いことかと言うと、必ずしもそうとは言い切れません。

わたしがいま自分に余裕があって健全な状態で考えるのは、将来自分がもし子供にとってのお荷物になってしまったなら、ぜひ山に捨ててほしい!ということです。いや、捨てるのは罪悪感が伴ってしまうだろうから、わたしが自分から旅に出よう、なんて思います。

でも実際そういうことが現実味を帯びてくれば、わたしの脳は自動的にサバイバルモードに入り、「親孝行しないと不幸になるぞ」なんて言い出すかもしれません。(もしもわたしがそういうゾンビ菌に感染してしまったら、わたしの子供たちをわたしから守ってくださいね。苦笑)

動物であれば、群れについていけなくなれば、それで自然に終わりです。要するに、人間の親への義務感とは、自分が捨てられることへの恐れが教育と結びついたのがルーツだったんじゃないかな、なんて思います。

(もちろん、義務感や罪悪感を伴わない本当の愛もあると思うので、それは与えたり受け取ったりしたらいいと思います)

自分の脳が生み出しているトリックに気が付く

自分の脳は、親との問題と関係のない恐れや怒りについても親との問題だということにしてしまう…というようなトリックをしかけることがあると思います。たとえば、誰でも怖いようなことで、自分が踏み出せないのは親との問題のせいだと考えたり、といったことです。

わたしの場合は、自分が不幸なのは「全部」父のせいだ!と思っていた時期がありましたが、不幸感が去ってみると、それは勘違いであったことに気が付きました。

自分の脳に少し厳しくなるなら、親との問題は、いろいろな問題をすべてそのせいにすることができる都合のいい対象です。親よりも子のほうが優勢になり始めた現代ならではな話だと思います。

でもこれは、親との問題がなかったとか苦しみがなかったという意味ではありません。

どこまでが親の問題でどこからが違うのかは、自分にしか分かりません。しかも相当注意深く観察しないと、自分でも分かりません。自分で気が付くことができないと、親との戦いが脳の中で一生続くようなことにもなってしまいかねません。この場合は、自分が「マインドレスサバイバルモード」な状態と言っていいと思います。

でも自分の脳が生み出すそんなトリックに気が付ければ、もしかしたら、すでに最初の悩みはとっくに終わっていたのかも…なんて気が付けたりするかもしれません。

自分が幸せになることが親と和解すること

最高レベルの親との和解は、自分が幸せになることだと思います。自分が幸せだなあと思ったとき、それはきっともうそれ以上ないレベルの和解です。

わたしは自分が家族生活が幸せだなあと感じるようになってから、父への(家族を大事にしなかったように見えたことへの)怒りが減っていきました。父は相変わらず父だけど、でも昔感じたような怒りはもう感じません。がんばったわけではなくて、もっと自然な感じでそうなっていきました。

まあひとつ良い選択をしたなあと自分で思うのは、あるとき父のことを考えるのをやめて、自分の幸せ(家族との時間)に集中するようになったことです。

仮に抱き合えなくても、「幸せになったよ」と報告できれば、それ以上の親との和解はない…と言ってもいいように思います。

あと一つ付け加えたいのは、それを言いたくないがために、「絶対に幸せになんてなるもんかー」と無意識に決めて生きてきたなあと、自分のケースを振り返って思います。

自分が幸せになると親と和解しちゃうなんて、そのときは耐えられなかったんですっ。笑

 

 

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