「進化の神さまの言う通り」がコンセプト

(1968年12月24日の地球の出)↑あそこにわたしはまだいない。あなたは?

「進化の神さまの言う通り」がコンセプト

このブログのコンセプトは「進化の神さまの言う通り」です。(宗教でいう神様というより、物理の法則のようなイメージでこの言葉を使っています)

これは、進化の神さまならぼくらにどう進化してほしいか?を自分なりに想像し、実際にそう生きてみる、という試みです。

進化の神さまの意図に合うほど、人間としての生活が物心ともに豊かに、そして楽になる、という仮説の証明に、自分の人生をかけて取り組んでいます!

ブログタイトルのHow to Free Your Mindとは、自分のお猿のころから続く旧いMINDを一つ一つ理解することによって、もしそれが不要なら手放していこう、

そうすることによって自分の人間の部分のMINDを無駄な生存競争から解放してあげよう、という意味です。

わたしが、自分の暴走しがちなお猿のMINDを理解できる度に、会社経営や家族生活など現実の生活が楽になっていったことから、その方法をシェアしてみたいと思い、サイトのタイトルにしました。

仮説

進化の神さまの意図に合うほど、人間としての生活が物心ともに豊かに、そして楽になる。はず。

ぼくらは99%がまだお猿

ぼくらは、お猿のころと同じ動機に突き動かされて生きている。

そんなお猿のころから続く動機を「自分はお猿だなあ」と自覚する度に、脳の構造が変化するチャンスが生まれる。現代の進化の神さまは、きっとそういうタイプの変化を喜ぶだろう、という仮説のもとに生活をする。

お猿の延長ではない「人間」がどういうものかをぼくらはまだ理解していない…と仮定し、

競争したい、戦いたい、勝ちたい、関心が欲しい、たくさん食べたい、などなど、そういう旧い衝動に一つ一つ気が付いていく。(禁止するのではなくて)

進化の神さまはもうぼくらにがんばってほしくない。

その衝動のままにがんばられると人類は滅びてしまうから、進化の神さまとしては、ぼくらにもうがんばってほしくない。がんばらない脳になってほしい。

きっとそういうことをしなくても、十分に生きていけるのが「人間」。

今後は、競争や争いや努力など旧い衝動が不要だと自覚していくことに対して、進化の神さまは報酬を出していくはず。

今後も繁栄したい点では変わらないけれど、進化の神さま的には当面は気が付いてくれるだけで十分。

罪悪感や副作用や代償はもう必要ない

これは、清貧や高潔とは真逆のチャレンジ。清貧の考え方は、自分が動物の動機のまま人間の脳を持ってしまった危険性への、先人たちなりの対策。清貧でさえいれば、とりあえずは滅ばない気がするから。

でも抑えたものは消えたわけではなかった。それはいつか必ずどこか弱いところ…たとえば子供や部下や社会的弱者などへ向かって出てしまう。

がんばって抑えることに成功している間はポジティブに思えるそういった罪悪感も、自分が感じている自分の危険性とセットで、自分の罪悪感の強さは、抑えなければいけないと無意識にも感じているものの強さに比例している。

自分の罪悪感を理解していくことは、その奥に潜む原始的な「恐れ」や「怒り」などの旧い感情への理解を深めることになる。

罪悪感は苦しいし体にも悪いし周りへの害も大きい。トータルではマイナスかも。もし副作用も代償も必要ない生き方があるのなら、そのほうが進化の神さまの意図に合うことは疑う余地がない。

気長に取り組む

ただ、自分の代でとつぜん尾てい骨や盲腸が消えたりすることがないように、ぼくらはこの人生をそれほど変化することなく終えるだろう。動物のころから続く旧い衝動が消えることもなさそう。

進化の神さまとしても、まだ何回かは必要かもしれないものを安易には取り除けない…という事情もある。

ぼくらは、今までがんばって獲得してきたものをできるだけがんばらずに受け取り、自分の中のお猿の部分も満たしてあげながら、自分への理解を深めていくだけ。きっとそれで十分。

だからこれは気長に取り組むタイプのもの。脳の実際の変化は、進化の神さまにおまかせ。

そんなぼくらはきっと「進化の神さまに直接雇われた研究員」。そのお給料はきっと「幸運」。笑

意識しながら満たされる

食欲も承認欲求もその他の欠乏感も、意識しながら思い切り満たす。

変えられないものは変えられない。自分の脳の回路は自分の意志では変えられない。食べたいという欲望は、我慢することはできても消すことはできない。とくに盲目的にそれを満たしている場合は、自分のエゴ=生存本能は欠乏感が生き残りに役立ったと信じて疑わない。たとえ自分が不健康になろうとも…

でも、意識しながら満たされることは、そもそもの欠乏感を直視することになる。その欠乏感は本当に必要な欠乏感なのか?それとも古いトラウマに過ぎないのか?自分の体験だけでなく自分の遺伝子の長い歴史に思いを馳せると、そういうトラウマはあって当然と思えてくる。自分のそんな欠乏感を「無意味だけど仕方ないよね」と思えるようになると、それは癒しになる。すると、脳は少しずつだけど、「欠乏感の回路はもう要らないかなあ」と思い始める。

だから、我慢に我慢を重ねるような修行は逆効果。むしろ自分の欠乏感を赦してあげる。子供が欲しがるおもちゃが明らかに明日には飽きて要らなくなるようなものでも、それも無駄を体験してみる機会だからあえて買ってあげることがあるような感じで、そんな自分への優しさは自分の欠乏感という恐れを解いていくきっかけになる。(たぶん)

活動の概要

事業経営、お金について

ビジネスとは、大昔で言えば狩り、もう少し新しいところでは農耕、の現代版の活動です。

この活動では、負ける恐れや勝つ快感のような旧い衝動と、活動そのものに感じる楽しさを分けて考えます。何かを達成することを目指すというよりも、どんな動機で仕事をすればお金と幸せの両方が手に入るのか?を探していきます。

見つからない場合は、既存の事業の枠を超えて探します。そして、経営やお金で問題が発生したときは、その問題に対して感じる感情を注意深く観察し、自分の心を理解する機会にします。

戦いから新しい動機へと自分の生き方が変わっていくことが、業績や幸福の度合いにどう影響していくかを観察します。

人間関係、健康について

ぼくらにとっての人間関係とは、生き残っていくためには群れをつくったほうが有利だった、という動物のころから続く知恵です。

自分の脳の「人とつながる」ときの反応を観察し、それを純粋な幸福感と生存競争のための部分とに分けていきます。

もう少し細かくは、純粋な幸福感というポジティブな感情と、

つながれてほっとした感じ、つながれなくて不安な感じ、認められて安堵した感じ、認められないと怖い、悲しい、腹が立つ感じ、勝ちたい、負けたくない、などの出所が欠乏感をベースとしたネガティブな感情とに分けていきます。

そしてネガティブな感情については、現代におけるサバイバルとはもはや関係がないにも関わらず過度な危機感などの感情を生んでいる旧い観念として、一つずつ理解していきます。

また自分の健康状態は、自分の本当の感情を知るためのバロメーターと考えます。自分自身が無意識にブロックしていて深く掘れない部分を健康状態が教えてくれていると考え、風邪をひいたら「この風邪は自分自身や進化の神さまからのどんなメッセージだろう?」と考える機会にします。

家族関係について

活動を始めると、自分の人生のすべては自分の幼少期の心の状態がそのまま反映されたものであることに、気が付くことが多いものです。(インタビューすると皆そう言うし、わたしもそう感じる)

そしてそういうことは他人との関係よりも、逃げ隠れができない家族との間で表面化しがちです。外での人間関係よりも核心に迫ることになるので、家族関係は最も幸福感に満ちた体験になる反面、最も苦しい体験にもなりがちです。でも、ここではそれを自分を理解するチャンスと捉えます。

幼少期に両親との関係が良かった子供は、大人になってから幸福感を感じやすくなります。逆にそうでなかった場合は、社会での勝ち負けに幸福感が依存しがちです。だからぼくらが個々に家族関係について自分を癒すことは、一人一人がハッピーになるだけでなく、地球が持続可能になれる最短かつたぶん唯一の道かもしれないというイメージが、進化の神さまの視点を想像するとできます。

家族関係における自分の心の探求は、いろいろ挙げた中でも最も意味のある活動と言えます。(ビジネスの修行がおまけに感じるほど)

もしわたしが進化の神さまなら、これを自発的にやってもいいという人間がいたら、そのほかのことについてはものすごい特別待遇します。笑

日常生活

意識しながら楽しく食べる。意識しながら楽しく承認欲求を満たす。我慢してもその我慢はどこかに蓄積されてしまうだけで意味がないのだから、どうせやるなら思い切りやる。思い切り満たす。

ただし、「無意味だなあ、ああ無意味だなあ」とつぶやき、続いて「でもかわいいから(←自分がね)今日はいいや!」と、まるでペットにたまにハメを外させてあげるような愛で意識的に思考しながら、自分のエゴを満たしてあげる。

どこまで信じるか?

この仮説をどこまで信じるか?によって活動は異なります。

1.完全に信じる

日々瞑想をして、自分の中のお猿の衝動を発見し理解するだけ。それだけで幸せにも裕福にも生きれるはず。その検証にすべてをかけて生きる。そのほかはなにもしない。もし仮説が間違っていても「研究楽しかったね」でOKな覚悟で。笑

2.おおかた信じる

さすがに瞑想だけでは心配だから、仕事も日常生活もがんばる。だけどどうせならお猿のホルモンではなく、ワクワクするとか楽しいという副作用のない新しい動機を探して、その動機で仕事や日常生活を送ってみる。

3.半分信じる

今は無理。だけど信じたい気持ちはある。だから今まで通り仕事や日常生活をがんばる。だけどそこで発生する感情を通して、自分のお猿のホルモンへの理解を深めていく。そうしていく中でもし進化の神さまの意図を少しでも確信できたら、ぜひステップアップしてみたい。

世界第3位の経済大国なのに幸福度がなぜか世界58位な日本人の、進化における役割!

人生…とくに世界第3位の経済大国なのに幸福度がなぜか世界58位の日本人の人生は、なぜこんなに苦しいのか?

こんなに真面目に、こんなに我慢して、出したくない元気をこんなにがんばって出して、逆に自分の心の声のボリュームを10%くらいまで抑えながら、空気を読み、お互いにルールを破らないかを見張り合いながら、緊張しながら生きているのに、なぜ幸福になることが許されないのか?いつ幸福になれるのか?そもそもこのがんばりの延長線上にぼくらが幸福になれる未来はあるのか??笑

要するにすべては幸福になるためにやっているはずなのに、なんだか悲しい話ですよね。

わたしも、そんな問いへの答えを「必死にがんばりながら(笑」探してきました。

幸福度に関して言えば、ぼくらは後進国であることはどうやら間違いなさそうです。我慢をしない、そんなにがんばらない、それなのにぼくらより幸福な国はたくさんあります。10位以内のマスタークラスになると、裕福なのに幸福です。では、我慢し合うことを追求してきたぼくら日本人はなにを目指しているのか?3位と58位が同居する矛盾を通して、ぼくらはなにを探しているのだろう?

幸福度の順位を見るとやはりどこか同意してしまうし、心を大切にと言葉では言うけれど、ぼくらが言う「心」とは実質「義務」という意味に成り下がっていて、ぼくらはもしかしたら最も心を忘れてしまった民族の一つかもしれないなあなんて思います。

でもそれはたぶん、戦争で豊かさから自尊心まですべてを失ってしまったせいです。ぼくらが教育を受けられたり食べるものに困らなくていいのは、その後の驚異的な復興と発展を、あらゆる犠牲を払って実現してくれた先人たちのおかげです。そんなギフトを受け取ったぼくらの世代ができることは、幸福度10位以内への復帰すること…な気がします(きっと戦前は10位以内だったはず)。もちろんせっかくだから経済も10位以内くらいをキープして。笑

ぼくらは自分が思うよりも心を失っている、傷ついてる。それを自覚することは、とても怖いことです。なにかの拍子に折れてしまいそうで…。そんなぼくらは、「大丈夫です」という「建前」に文字通り命をかけて生きてきました。

こんなに精神的に「がんばる」民族は、世界でも類を見ないと思います。でも、がんばった先に幸福感がなかったことを世界一実感しているのもぼくら日本人です。そんなぼくらが感じている日本人特有の恐怖の向こう側に見つかる…というか思い出す…取り戻す…幸福感は、他のどの国も気が付かないガラパゴスらしいなにか…で、進化の神さまとしては、きっとそこらへんを日本人には期待してくれているはずです。笑

 

 

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