新「金さえあればいい」理論(心編)
「金さえあればいい!」
…なんていうとなんだかろくでなしみたいだけど、わたしの中では今とても流行っている最先端な考え方なんですね。
お金さえあればいいというのは、別の言い方をすると、とくになにも成し遂げなくてもいい…ということです。
なにかを成し遂げなければならないというのは、みんながプレッシャーに感じることだと思います。
欧米では人並み外れたことを成し遂げる必要があるし、日本ではちゃんとした人格者としてまわりに認めてもらわなければなりません。
いずれにしても、人間関係の中で自分がどういう存在になるか?がこれまではとても大事でした。
だから、たいていの人はお金さえあればいいわけではないと思います。
人はみな存在感が欲しい。
だから出社したくないと言いつつも実はしたい…
なにかに属していたい…
「出社したいエゴ」と「したくない本当の自分」が脳内で混ざっているのが、現代らしい一般的な思考ではないかと思います。
「お金さえあればいい」はもちろん「心のお金」にも言えます。
このブログでは心のお金と現実のお金を同じような価値として考えますが、
心のお金の貯金がたっぷりある場合も、現実のお金がある場合と同じように、やはりとくになにを成し遂げる必要はありません。
大富豪の家の子供はお金にあまり執着がないものですが、心が豊かに育った子供もそれに似ていて、無駄な承認欲求は少ないものです。
2代目社長の悩みを聞いていたりすると、2代目が苦労をするのは1代目とは逆に心のお金の方だったりして、
1代目もせっかく成功してもなんだか家族で降り出しへ戻ってしまうようで、難し(くて悲し)いものだなと思います。
現実のお金とは、生活必需品以上についてはもはや心のお金のためにあるようなものだから、
もし承認欲求から解放されたら、必要な分があればいいだけになり、その額は少なくて済みます。
ミニマムを推奨する意味ではなく、「本当に必要なものとはその程度」という自分のベースとなるラインが把握できていると、
承認欲求にあまり振り回されないタイプの夢の実現を楽しんだり、必要ではないけどふんだんにあるという本当のラグジュアリーを楽しんだり、またはそのまま人生が終わるまでのんびり自由に暮らしてもOKなど、選択肢の幅が広がります。
自分はお金さえあればいい脳か?それともお金がいくらあっても足りない脳か?
承認欲求が銀行口座を握らない脳=お金さえあれば幸せになれる脳…というのは、とくにコロナでいろいろ体験した今では、
いろいろな意味で持続可能な人類への最先端な脳ではないかなあという気がします。
抱えている問題は、「金さえあればいい」「もはやお金だけの話」というところまで行けたらすでに解決したも同然で、それは新しい意味でとても健全なことではないかと思います。
この考え方は、そのプロセスとしても、子供への無駄に厳しい教育の削減や苦しみを伴わない業績の向上など、いろいろな場面で使えるなあと思っています。
(関連コラム)
生活必需品と承認欲求(←否定はしないが把握しておく必要はある)の境目がどんどんあいまいになっていってしまう自分の心の変化を直視するための曲