言葉に惑わされなくなると人生の自由時間が増える
↑の関連です。
古い007を観ていたら、同じ組織の仲間かどうかを確認するのに、「合言葉」を使っていました。
なるほど昔はAIによる顔認証なんてないのだから、スパイといえどやれることはその程度なんだなあ…と思いました。
ただそういうフラグが立ったあとに起こることは決まっているわけで…(敵がなぜか合言葉を知っている…怖)苦笑
昔の映画はストレートだなあ…と楽しみました。
会社経営では「言っていることではなくやっていることを見よ」とよく言うけど、
個人的にも、言葉の内容や言い方で人格を判断するのは、やめたほうがいいなあと思う。
親切な言葉を言われて「あの人いい人~」とか言っている人がいると、「おいおい大丈夫??」と思う。
というか、「言葉」という仕組みは残念ながらもう半分腐っている…と個人的には思う。
「愛」も「友情」も「優しさ」も「心」も、わざわざそういう言葉を使うとき、その言葉が生まれたときの本来の意味でストレートに使うことはもうほとんどなく、
その周りや裏や内側には、いろいろな別な思惑がくっついている。
人は言おうと思えばなんでも言えるし、それを言うための態度も器用な人ならどうにでもなれる。(とくに建前社会の日本では)
そして真意はその奥に隠してある。もしくは事情があって言えない。
将来人間が合理的に進化していったら、言葉はなくなるだろうと思う。
必要な情報はなんらかの方法で一瞬で伝わって、それで話は終わり。
イーロン・マスクが言っていたけど、その点AIには無駄がない。
意気投合するためにまずは飲みに行きましょうとか、礼儀?などのローカルルールを山ほど学びましょうとか、そうやって群れの中で認められるとようやく一人前の社会人になれますよとか、
AI同士にはそのような超絶無意味な儀式は不要。
必要なことは一瞬で伝わり、仕事はそれで終わり。あとは自由時間。
飲みに行くのも、意気投合するために行くのではなく、意気投合したから行く。ピュア楽しみのために。
このあたりは、無駄なく仕事をしている最先端の人は、すでにやっていると思う。
まあAIのようには無理でも、飲みに行くのは意気投合した人とだけ…はやろうと思えばできそう。
そして仕事で言葉を発するときは、好かれようがどう思われようが、伝える必要があることだけ。
プライベートでは、本物の人間関係を築きたいなら、本音しか言わない。
そしてそもそもそういう古い儀式が不要な相手と付き合うように心がける。
チームで一緒にプレーすれば友情が育つこともあるかもしれないが、でもそれは目的ではない。
すでにこういう感覚になっている人は、今の時代は生きるのが楽だったり裕福だったり本物の親友に出会えたりと、時代の波に乗っているだろうと思います。
(コロナは「そうなれば?」という進化の神さまからのサインかも)
わたしの場合は、家で家族といるためにはどういうライフスタイルを組み立てたらいいか?を模索していてこう考えるようになりましたが、
これはものすごくがんばれば可能なんだなあ…と実感しています。
ただ、なぜものすごくがんばらなければならなかったのか?というと、言葉を言う場合も聞く場合も一つとても難しく感じたのは…
自分の承認欲求の扱い方。
自分はなぜシンプルに成果を得ることよりも承認を集めることの方を選んでしまうのか?
自分の脳はなぜ承認を集めることが成果を手に入れるための唯一の道だと言い張るのか?(唯一ではないのは明らかだし、往々にして方向がむしろ真逆とすら言えるのに…)
……といつもの話になっていくわけですが、
今日はこのくらいで!
>>冷静に考えてみると百害あって三利くらいしかない承認欲求…の適切な扱い方研究コラム集
これらは怖いことにはならない合言葉シーン↓
「マッチある?」「ライターなら」
in London April is a spring month, whereas in St. Petersburg we’re freezing our butts off. ロンドンでは4月は春だがサンクトペテルブルクではケツが凍る
は??
笑!