承認欲求を満たすのと減らすのはどらちが幸せになれるか
たまに過去の記事を自分で読み返してみると、ここでは要するに、
「承認欲求を、感じ方が変わることによって減らしていこう」「そうすると人生が楽になりますよ」
「無駄な心の活動が不要になるから楽に稼げるようになりますよ」「それなのに自由な時間が増えてしまいますよ」
と自分は言いたいんだなあと思います。
それは、自分がそれまでの人生で承認欲求を満たすためにがんばってきた結果、今思えばそれはあまり意味がなかった…と感じているからかなと思います。
わたしはとくに承認に欠乏していた人間だと自覚しているけれど、あまりの欠乏感からそれを得るための努力もすごくて、人生の前半は本当にそれだけにすべてを捧げた!と言ってもいいくらいだったなあ…と振り返って思います。
欠乏していた時期と努力によって足りていたのに失うことを恐れていた時期の両方を体験してみて、
社会からもらえる承認とは、体内に貯めてはおくことはできないんだなあ…ということが身に沁みています。
この承認欲求問題は、たとえ満たされても問題が解決するわけではないと気が付いてしまった場合や、あとは満たすことが現実的に不可能になってしまったような場合に、ようやく直面する話ではないかと思います。
ちなみに老後にそう感じる人は多いとのことですが(とくに男性)、承認欲求の話は、途中までの成否ではなく人生の最期まで含めて考えないと理解ができなそうだなあと思います。
承認欲求とは現代では「塩分」みたいなものかなと個人的には思っています。
昔ぼくらが魚だったころ、自分よりも大きな魚に追い回されて陸へ上がった者たちのほとんどは、呼吸ができなくてしんだだろうと思います。
ようやく両生類になれて呼吸問題が解決するとこんどは陸地の奥深くへと進出して行ったと思いますが、するとこんどは塩分が足りなくなって、また膨大な数の両生類がしんだだろうと思います。
そのときに脳内に「塩分は美味しい」という回路ができて(=塩分を美味しいとたまたま感じた個体が生き残って)、それが今に至るまで遺伝してきたのだろうと思います。
人間になってからは知恵もついたので「こういう場所には岩塩がありそうだ」というようなことも分かるようになり、そして今では家に美味しい塩が何種類も常備してあります。(←わたしん家)
食べ物や水が足りなくて生命が危機に陥ることはまだこの世界にはありますが、塩分が足りなくてしぬことはもうほぼなくなったと思います。
それでも僕らの脳内の塩を強く求める回路は、太古の昔のままです。
ちなみにこれは他の「美味しい」と感じる成分についても同じだろうと思います。
たまにテレビで「おれは味が分かるから偉いんだ」という感じの審査員みたいなのが出ていると、
それはもうほぼ要らなくなりつつある過去の能力で、もはや楽しみに使うくらいしか価値がないのに、脳内のそんな古い回路が「美味しい」と感じることについて、よくまああんなにえばれるもんだと感心します。( ̄▽ ̄;)
味が分かるとか足が速いとか狩りが上手とかあとはビジネスが上手も、それらはエンターテインメントとしてスタンディングオベーションには値すると思うし、今のところはまだ食い扶持にもなるし、それはみんなで楽しいのだからもちろん素晴らしいけれど、
それらは進化が進めば不要になっていくものです。
ちなみに欧米では審査員や面接官の仕事は自分のエゴが隠せなくなってしまうから「恥ずかしい仕事」という一般認識になっていて、たとえばタレントオーディション番組の審査員は社会のヒール役(=いやなやつ)というキャラで半分はジョークでやっているけど、
そんな、あらゆる差異を上下関係や権力に結び付けたい承認欲求とは、日本列島が抱える悲しい欠乏感だなあと思います。(=それほどぼくらは飢えている)(←せんそうにまけて自尊心のすべてを失ったのだから仕方がない)
そんな承認も、塩分と同じように、かつてそれが足りなくてしにそうになったトラウマで生まれた回路が動いているだけだろうと思います。
でも、群れから外されたら簡単にしんでしまった時代と比較して、現代の承認の欠乏感は現実の生命の危機とはあまり関係がなく、
いまやそんな旧い反応のほうがどちらかといえば別の意味で問題(孤独感で元気がなくなったりなど)を引き起こしています。
塩分も承認もいつの間にか、求めすぎたり摂り過ぎたりが身体にはよくない時代になってしまいました。
塩分過多の人も、承認欲求が満たされてなくて悩んでいる人も、子供のころ足が遅くて悩んだ人も、グルメ審査番組で自分の上司でもない審査員に心のお金を徴収されてしまう人たちも、
みな人類の進化のために、そういう古くてまもなく要らなくなるであろうものを選別して捨てていくために、生まれ育ちや人生の運命においてそれらを引き受けてきました。
そしてそういう人たちがそういう古いものを手放して新しいカタチで幸せになれることを証明することができたら、それは進化です。
ぼくらの脳は、今日も他からの承認を無意味にも求めるだろうけど、でももしぼくらが人生の終わりで、それがあってもなくてもやせがまんするのでもなく幸せを感じられる脳になれていたら、それは進化です。
わたしの場合はそれに成功したとしてもそれはもう遺伝するわけでない変化だけど(いま50歳)、人間の進化は動物とは違い遺伝を通してでしか起こらないわけではないので、
こういうことをだれかと一緒に考えるというのは、「遺伝作業」よりも意味があることではないかなと思います。(←50歳になるとミドルエイジクライシスによって発症する承認欲求=下ネタ)笑
承認欲求が幸運にも満たされているときは「おれの脳は今日承認をもらえて幸せを感じたな。1000年後には要らなくなるものではあるけれど、ありがたいな。」という心境になれたら、それは進化の種だろうと思います。
そして残念ながら欠乏しているときは、「あーおれは古い承認欲求が満たされていないんだなあ。苦しいなあ。だけどこの欠乏感を活かしてそれを必要としない新しい幸せを人生を通して見つけられたら、ノーベル進化賞だなあ」なんて思えたら、
それは、これまでの承認を巡る生存競争のことで頭がいっぱいだった人類の人生と比較して、おそらく約3回分くらいの進化です。(=旧いものが満たされなくて、3回しぬくらい苦しい)
これまでの生物の「進化」とは、生存競争を通して命が次々にしんでいく…という試行錯誤だったわけですが、
今ぼくらは、こういう思考作業(脳内シミュレーション)によって一回の命を最大限に活用して進化をすることが、その気になれば可能です。
バタバタとしぬのとどちらが楽か?と考えてみると…、
まともに思考する暇もないほど生存競争に忙しい一生の方が楽だろう(=身体的な苦しみはあっても、苦悩は少ない)、と個人的には想像します。
でもまあこの…思考ができてしまう苦悩に満たされた時代の進化もまた、全生物未到のアドベンチャーです。
わたし個人の人生においては、塩分へ感じ方が人生の最期にどう変化しているか……
興味深いです。
もし薄味を心から美味しいと感じるようになっていたら、とてつもない進化幅だと思います。
でもまあ無理だと思います。笑
あなたのチャレンジテーマはなんですか??
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