「そう感じない」というアプローチは結果的にきっと近道
これをアメリカの南部で言ったら3日以内に撃たれる気がするけど、
本当に神がいると信じるなら、対戦相手にもその同じ神がいるわけで、祈れば自分側だけが勝つとか、そういう摩訶不思議なことはない…という結論になぜ至らないのか?無宗教なわたしにはとても不思議。
アメフトやサッカーで得点した時に天の神に感謝したりするような欧米人の感覚は、どうも理解ができない。
両方勝たせてください!なら分かるけど、たくさん祈ったらこちらだけが勝って相手が負けるとか、
忠誠心を見せたら特別扱いしてもらえるとか、
もし神がそういう感じなら、昔嫌いだった取引先のえばった社長とそんなに変わらないレベルの存在にしか思えない。
その場合ぼくはこの世に絶望します…笑
まあ宗教の話は戦争になるからこのくらいにしときますが。(戦争を起こさせる神っていったいどんな神だい…おっとまた始まってしまった)
まあそんなわたしも本当に苦しいときには神に祈ります。笑
でもいないなあと思いながら祈ります。
自分の弱さやダークサイド(強すぎる生存本能)に手を焼くようなとき、人間にはやっぱり宗教はまだ必要かも…と思います。
ただ、そういう気分屋の上司のような神はいないと思うけど、でも物理の法則のような神さまはいてもおかしくないかも、という気はします。
それは、科学の法則がなぜ法則なのか?というような部分です。
宇宙も、最初の爆発はわたしには理解ができないけど、その後どういう経緯で地球ができてわたしがこの生活をしているのかは、科学者たちのおかげでイメージができます。
そして未来も、宇宙が終わるまでは(そういう日も来るらしい)、そんな物理の法則から外れることはない。
そうすると、ある程度は未来も予想ができます。
もちろん生物の進化もその法則の中で起こっているはずです。
たとえば大きな隕石が降ってきたら、恐竜のような非効率的な体では生き延びることができない時代が始まる、と予想ができます。
そのときもし自分が小さなネズミなら、助かるかもしれない。
そして進化とは、そのときにたまたま小さな哺乳類として生まれていたり、隕石が落ちる場所から十分に遠かったから生き延びたりする感じ。
自分がそのときにネズミに生まれていたり遠かったのは運!とも言えるけど、それも物理の法則の範疇。
擬態する昆虫も、意図して擬態したわけではなく、たまたまそう生まれたから生き延びた。
そして羽根が目玉模様で生まれなかったその他の数えきれない蛾たちは、残念ながら鳥に食べられた。
だから、恵まれた模様に生まれた蛾も、運的な物理の法則で生き延び、繁栄するに至った。
ぼくら人間が決定的に新しいのは、その気になればいろいろ自分で選べることです。
目玉模様の服を着れば生き延びれるのなら、そういう服を選んで買ってきて着ればいい。
身体が大きいことがリスクなら、大変ではあるけれどがんばって痩せればいい。
隕石がたくさん降ったり環境が激変する時代なら、動けないことはリスクにつながるわけだから、身軽に生きる方法を見つけることが生き延びられる可能性を上げることになる。
次の時代に生き延びるのはそういう予測ができるタイプで、これは蛾が目玉模様に生まれなければ生き延びれないケースとは違って、その気になれば人間の場合はできる。
先日テレビで「風が吹けば桶屋が儲かる」の話を観て、「猫、カンケーないだろ!笑」なんて子供たちと盛り上がったのですが、
そういうちょっと笑えるような無理のある因果関係も、現実にはまああるなあと思います。
宇宙の最初の爆発からここまで、すべてが玉突き衝突?(いい言葉が見つからない)のように連鎖してきました。
今これを考えながらキーボードを打っているわたしの脳内のニューロンの動きすら、ビッグバンから始まった気の遠くなるような連鎖反応の結果…ということになるだろうと思います。
そうなると、自分の選択というのはあるのかないのか?という疑問が出てきますが、
そう迷うことさえもきっと連鎖の中で、そんな新しい段階の連鎖の時代に生まれたんだろうなあと思います。
この文章も、物理学者みたいな人が読んだらつっこまれて面倒だから少しふざけようか?とか、いろいろな連鎖反応を心配しながら書いています。笑
自分の弱さやダークサイド(=極度の欠乏を感じている生存本能)に翻弄される、そういう扱いが難しい脳に生まれるというここ5000年くらいの悩みについては、
自分が恐竜に生まれるか?ネズミに生まれるか?と同じくらいに、自分は無力です。
動物みたいになにも考えずに生存本能全開で生きられたら、苦しいことはあっても、悩みはないだろうと思います。
でも人間はそこまで戻ることはもうできないわけで、それを前提として前へ進むしか、結局はないだろうと思います。
古き良き時代にまで戻れば人間は幸せになれると考える人も多いけど、個人的にはそれでは無理な気がします。
過去には、ヒントはあっても答えはない。
ぼくらは、前人未到の進化の道を進んでいる。
だからどこかで間違えてばちが当たってこうなった…とかそういうこともなく、すべては進化のための試行錯誤の一環だろうと思います。
隕石が降ってきたとき、ねずみはねずみなりに必死に逃げたり穴に隠れたりしたと思います。
それは考えてそうしたというよりも、ねずみの脳による自動反応でした。
「まあねずみはそんなもんだろう」と思いそうになるけど、
でも人間も、すごい脳を授かったとはいえねずみがやっていることと変わらず、自動的に動く脳にこの身のすべてを任せています。
自分は選択していると自分で思っていても、もちろんねずみよりは少しアップグレードはしているけれど、
脳内の古い部分(偏桃体など)を司令官として、その古い部分が発する感情を解決するために残りの大きな新しい部分の脳を使って反応を決めるという仕組みは同じです。
今の進化のステップとしては、そんな古い部分の脳を司令官として自動的に生きるか、それとも感情を司令官としない全く新しい仕組みを選ぶか?という岐路に、人間はいる気がします。
脳の扱い方は、大きく3つのレベルに分けられると思います。
1.怖いから動く、快感だからやる、感情による自動的な反応に任せる
2.それでデメリットがある場合はやるのを我慢する、もしくはメリットがある場合は無理矢理がんばってやる、一般的に言う理性的な状態(でもこれもまだ感情vs.感情。古い感情対少し新しめの感情)
3.そもそもそう感じない
たとえばダイエットは我慢が定番ですが、「無駄に食べたいと感じない脳の回路になるためにはどうしたらいいか?」を考えてみることは、進化という観点からは、3つ目の新しい段階が見えてきて興味深いです。
感じ方を変えるといっても、そんなに大げさな話ではなく、
たとえばわたしの友人は、ゲームにはまっている時期は寝食を忘れるのでぜんぜん太らないそうです。
また、わたしはなぜかおなか周りにだけ脂肪が増えてしまうタイプの身体だけど、長期の旅行中はなぜかいつの間にか痩せていくことに、あるとき気がついたことがありました。
そして大げさに考えるなら、こういうささいなヒントをもとにライフスタイル全体を設計しなおすことができたら、そもそもの問題であった「無駄に食べたい」という感情自体を減らせるかもしれません。
人類が自分の脳の自動反応から出て考える時間をそれぞれわずかでももつことは、これまでの進化の歴史にはなかった大きな変化を生むと思います。
たとえば、ばかにされても全く腹が立たない、そう感じない脳の回路のつなぎ方が見つかったらどうなるか?
もしかしたら、戦争がなくなるかもしれません。
我慢するとかモラルとかの話ではなく、戦争をしたい意味が分からない世代が生まれる日も、ぼくらの世代の思考活動次第では近いかもしれません。
しかもぼくらの場合は、蛾とは違って、親から子に遺伝を通して伝わる情報がすべてではありません。
言語による他とのコミュニケーションや、最近ではインターネットを通して得る情報は、両親から学んだことよりもはるかに多いし、
自分の人生への影響も、無意識の部分はまだ遺伝情報による無意識の反応がほとんどを決めていると思うけど、それも早いスピードで変化している気がします。
そもそも結婚という制度はどこかおさるのころの香りがするし、遺伝子を通してでしか自分の生きた意味が残せないと考えるのは、とても動物チックに感じてしまいます。
だから子供を産む意味も、昔(動物だったころ)とは違うと思います。
子供が欲しかったのに授からなかったという人は、他人にこんなことを言われたら腹が立つかもしれないけど、「産まない選択をした」というような人の話を聞いたりすると、「新しいなあ」と感じることがあります。
これ以上人口が増えたら地球は持ちこたえられないわけだし、数を増やさない…という生物としての新しすぎる選択は、自分たち自身では理解は難しいけれど、生命全体の意志としてはあり得る気がします。
そういう新しさの担い手は大変なこともあるかもしれないけど…、どういう生まれ育ちでどういう人生を送るかは、大枠ではもしかしたら個々のコントロール下にはないのかも…、なんて思うことがあります。
日常生活の悩みも、悩む心ごとごっそり失くしてしまうというアプローチは、面倒そうでも結果的に近道になることが多いと思います。
そのアプローチも3方向あると思います。
1.この感情は古くて無意味だから無視してしまう方向と、
2.そう感じない場所へ行く方向と、
3.そう感じない観点を探す方向、です。
無視できるなら簡単でいいし、また場所を変えれば済むのならそれも比較的簡単です。
でも場所を変えられないことが悩みだったり、場所を変えても同じ悩みがついてくる場合は、少し難しいです。
その場合は、「自分がそう感じる仕組み」を理解すれば、感じ方が変わる可能性があります。
目の前の敵を倒しても、「そういうタイプの相手にそう感じる」という根っこが残っている間は、同じ種類の問題が雑草のように生え続けます。
それは不思議な現象ではなくて、「そう感じる」とは、脳が自分を守ろうとしているだけです。
脳内ではセンサーが敏感になりグレーのものにも全て警報を鳴らすので、そういう状況に直面する機会が増えるのは、考えてみれば当たり前なわけです。
その場合、もともと問題ではなかったものも問題へと発展してしまったりして、脳が良かれと思ってやることが必ずしも好ましい結果につながらないのは、
過剰な食欲は分かりやすくそうだし、自分が武器を持っているから相手も捨てられない…みたいな話の大元にもなっていると感じます。
わたしは無宗教ですが、「進化の神さま」という発想は好きなんですね。(最近ひとりで盛り上がっている)
進化が向かう方向を先取りすれば楽に生きられるのは当たり前だと思えるからで、シンプルだからです。
食欲みたいな素朴な話だと、自分の感じ方というのが、どれほど時代とずれているのか?が分かりやすいです。
そんな分かりやすいことですら自分のコントロール下にはないわけで、そう考えると日常で感じる感情の多くがもう無意味になってしまっているだろう…という想定になるのは自然です。
ばかにされたら腹が立つ、傷つくというのも、昔はその感情エネルギーが必要でした。
そのエネルギーを使ってライバルの猿に対抗したり、もしくは負けることになっても、次の群れではそのネガティブな感情を使い、逆に他をいじめることで自分が優位に立てたことでしょう。
そういう気が遠くなるほど昔から続いてきた感情のうち、今の人間に本当に必要なのは、どのくらいあるだろう?
たまにそういう観点から考えてみると、問題解決にあたるときも、「これ、問題ごと要らないんじゃない?」みたいな気づきを得られるかもしれません。
物理学者が主人公のコメディショー。
主人公の天才物理学者シェルドンのお母さんは、テキサスでノアの箱舟を心から信じている…という笑える設定。
わたしはこれを毎晩1話観てから寝るのが習慣なのです。(もう4周くらいしてます。笑)
シーズン12で終わりとのことだけど、あまりにもファンなので、その事実をまだ受け入れられない!
アマゾンプライムビデオで観れます↓