「人間なんてそんなもん」と思えると楽になれる
わたしは基本的に、簡単に騙されるタイプです。悲
今は自覚ができるようになったのですが、わたしの脳は愛情に飢えているのです。
だから、ほんの少しの優しい言葉ですぐに嬉しくなってしまう…
その言葉が、後から大きな請求がくる商品のようなものだったとしても、あまりにも欠乏しているので、本当は何を狙っているのか?を見抜けない。
そして後から請求が来たり、ずっと後になって奪われたものに気がついたりして、苦しむのです。
お金の場合は「あーまた失敗したー」と思いながらももちろん払いますが、
精神的なものは、たとえば断る自由のない頼み事をされるようなときに、「ああ利用されているなあ…」と自分が削れていくような気分になります。
まあ最近は、自分の欠乏感の研究が進んだことでそういうことはほぼなくなったけど、
でも人間恐怖症は根深いです。(とくに日本人が本音が読めなくて苦手かも。外国人のは分かるし、はっきりとNOが言えたりするのに…不思議)
人生を振り返ると、わたしの人間関係は大きく2種類に分けられるなあと思います。
それは、わたし側からの見方で言えば、わたしの愛情不足な性質を使う人と使わない人です。
それは善悪の話というよりも、できるだけソフトな表現で言えば、
わたしの欠乏感を使おうとした人は、今になって思えば、その人も欠乏していた…
お互いに欠乏感というとっかかりがあるから、近づいてしまう…
そしてお互いに持ち合わせていないものを補給し合う…
でも実際には差し出しているものに実態はなく、お互いに借金をして奉仕し合っているようなものなので、その関係はいつか破綻してしまう…
欠乏した者同士の助け合い?奪い合い?には、お互いにそうする以外に選択肢がなかったような虚しさを感じてしまいます。
一方で、わたしの欠乏感を使おうとしない人は、とくになにか魅力的なものを差し出してくれるわけではないので、わたしは興味を持たなかった。
そんな大切な「対等な関係」を知らない間にたくさん失ってきたんだなあと思うと、これもまた虚しい気持ちになります。
人生を振り返ると、「類は友を呼ぶ」をすごく実感します。
総じて言うと、問題の根本は欠乏感でした。
欠乏感がない人は、要らないものは要らないので、生きる次元が違います。
そういう人は、銀行口座が豊かな人が穏やかに経済活動を楽しんだり、お互いに多く払い合うような世界に生きているのと同じように、
心の世界において、他人に感謝やがんばりや連絡(=関心)を請求したり取り立てたりすることはなく、お互いの心をふんだんに満たし合う関係を楽しむことができます。
それは理性的にがんばるという感じではなくて、他人から取り立てる必要性がない、そうしたいと感じない、
まさに生きる次元が違うのです。
そんな生きる次元は、生まれ育ちで決まります。
わたしは自分が欠乏感に苦しんできたのもあって、そんな欠乏感問題をそもそも生まないためにはどうしたらいいか?を、子育てにおいて真剣に考えてきました。
自分が子供にあげようとしている誉め言葉が商品でないか?本心からの誉め言葉か?
自分の欠乏したエゴくんが、あとでがんばりやら感謝やら関心やらを請求しようとしていないか?
自分の承認欲求のためだけではないか?などなど、
そうしないように…というよりも、そうなってしまう自分の自動的な思考を発見するために、
愛はもちろんだけど欠乏感の謎を解きたいという思いもあって、毎日毎日細心の注意をはらいながら生活してきました。
人間関係で、「したたかに奪われて悔しい…」や、逆に「あげたのにお返しが来ない…」と悩む人は多いと思います。
でも実際には、無意識にも自分から差し出していたり、また自分は親切をしたと思っていても実は無意識にも心の請求書を発行していたりと、
問題の根本はたいていは欠乏感で、どちらが悪いという話でもなくなってしまうところが、虚しいものです。
そんなときは、
奪う方も奪われる方も、お腹を空かせた動物に過ぎないというところが共通点であること、(ごくたまに流れ弾のような被害もあるとは思うが)
悩むのは、お腹を空かせた動物に「食べるな」と言うようなもので、食べずに解決はしないので無意味であること、
でも幸いなことに、心の欠乏感は実際にお腹が減っているわけではなくて、欠乏感は「感」に過ぎないこと、
そしてその欠乏「感」自体の解決に取り組まなければ解決は永遠に来ない…と腹をくくるしか、悩みから解放される道はたぶんないこと…
この辺りをヒントに、目の前の問題を表面的に解決するだけではない道が見えてくれば、
たとえば目の前の相手に少しも反省や変化がみられない場合も(笑)、希望を感じられるかもしれません。
わたしもこういう風に考えられるようになってから、ニーディになることで奪われてしまうことが目に見えて減り、自分が奪ってしまうことも減り、生きるのが楽になっていきました。
こうやって「人間なんてそんなもん」と考えられる機会が増えると、
「人間なんて不完全だけど…、欠乏しているけど…、みんなでこの時代を生きているんだなあ」
と寛大に、
自他をまとめて赦せるような温かい気持ちになることも、たまにあるのです。笑
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