悲しいニーディをやめるためには

たとえば仕事をがんばっているのに評価されずに苦しんでいる人には、こういう反応は嫌かもしれないけれど、

わたしは「すごいですね」みたいなことを言わないようにしているんですね。

それは、がんばることや背負い込むことを生きる手段にすると、幸せになる日が最期まで来ない気がしてしまうからです。

逆に、がんばらずに同じものを手に入れる方法を発見するようなとき、そういうことはとても勇気がいることだと思うので、わたしは心からすごいと思います。

(下のコラムでも似たようなことを書いています。)

相手はこうするべきだ、で苦しんでいる人へ(ニーディの悲しさの解説)

 

ニーディとは、他人から関心をもらうために、たくさん差し出す、たくさん背負うことです。

でも「かまってください」ではかっこわるいから、「立派なことをしてるんだ」というストーリーに仕立てる。

そうすると「立派だ」と周りから褒められるんだけど、そして出血大サービスをしているのだからたくさん人が集まってはくるんだけど、

そのための支払いや背負うものも多くて、

あとで清算してみると(たとえば人生の晩年に)、「なんのためにやったの?」と疑問になるくらい、心が赤字になっていたりする。

そうやって心のお金を集めるために必要以上にがんばることを、わたしはNEEDY(ニーディ)と呼んでいます。

 

支払いが多いビジネスは不安定です。

少し売り上げが減っただけで破綻してしまう。

それは自分の心の財政も同じです。

利益よりも支払いが多くなってしまえば、今日褒められたエネルギーをもう明日には使わなければまわらない、自転車操業に陥ってしまいます。

それでも足りなければ、借金をしなければなりません。

借金をするとは、心の場合は、「もっとがんばる」ということです。

そうやってどんどんがんばりを増やし、それでも収入も増えているときはまだよくても、たとえばさらにがんばるライバルがいたりすると、それだけで褒められる量は減ってしまう。

がんばることに苦しんでいるニーディな人の心は、こんな風に不安定な財政状態にあります。

 

日本人は教育であまり褒めないけれど、それは現実的な原資(心のお金)が十分にないからです。

余談ですが、それはおそらく戦争で負けて失ったからで、一方でアメリカ人はたくさん褒めることを可能にする原資をもっていると思います。(人間性の違い…みたいな話ではなく)

日本人が出る杭を打ってしまう性質も、自分がこれ以上がんばれない…という苦しみの表れだったりすることがある気がします。

また、自分ががんばることが不本意であるほど、自分の子供や部下に同じがんばりを求めてしまう。

自分がもし彼らを褒めるなら、最低でも自分と同じくらいはがんばる姿勢=ニーディさを見せてもらえないと、褒めるわけにはいかない。(だってずるい!)

日本人ががんばりすぎるのは、そういう欠乏の連鎖なのかなという気がします。

 

がんばることに疲れた人は、こうやって自分の心に起こっていることを、客観的に把握できるといいと思います。

そして、そもそも自分ががんばり始めた最初の動機はなんだったのか?

なぜ自分は、あの気楽に生きている友人よりもがんばるのか?

なぜ自分は、だれよりも多くを背負っているのだろう?それは自分が立派な人間だからなのか?それとも…

人生の価値は「なにかをがんばって成し遂げること」「人よりも多くを背負い込むこと」だと思い込んでいる人ほど、

『がんばらない自分にどれだけ価値があるか?』という新しさを発見する使命のもとに生まれている気がしてなりません。

 

さあ悲しい荷を、これを機に降ろしてしまおう!

 

 

♪♪Nothingman
Isn’t it something?
Nothingman♪♪

 

 

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