相手はこうするべきだ、で苦しんでいる人へ(ニーディの悲しさの解説)

最近よく出たテーマからひとつ…

 

ワリカンをちゃんとしない人…

腹立ちますよね~笑

わたしは昔のルームメイトの一人がそうでした。(学生のころ4人で一軒家を借りていた)

やつはいつも財布を忘れた。

財布はあっても、細かいのがなぜかなかった。

そして、財布があってかつ細かいのがあるという奇跡は…まずなかった。笑

それ以外は好きだったんだけど、

もう二度と一緒にめしを食いたくない相手の一人です。笑

 

相手はこうするべきだ!

という思いで苦しんでいる人は多いと思います。

自分と同じようにがんばらない人に腹が立ったり、

ルールを自分ほど真剣にとらえないひとに腹が立ったり、

そういう苦しみは、いまの日本社会にあふれている気がします。

割り勘でぬるぬるとつかみどころがないやつとはいったいなんなのか?(←まだ怒ってる笑)

小さいころから兄弟間での競争が激しかったのかな?とか、

いつも負けてきたのかな?とか、

ただ単に損得勘定の遺伝子スイッチがオンなのかな?とか、

まあいろいろと考えてみることはできます。

でも相手のそういうぬるぬるで苦しむのは、自分です。

 

自分はなぜぬるぬるに自分でもびっくりするほど腹が立つのか?は興味深いです。

また、なぜ自分がそういうぬるぬるタイプに囲まれるのか?というもっと根源的な疑問については、最近までほんとに謎でした。

たとえばわたしの社交的な友人は、そういう悩みをもったことがなさそうです。

ぬるぬるタイプが周りにいない、

もしくは、ふだんはぬるぬるしている人も、その友人と接するときはなぜか節度のある人間になる、

みたいな感じなのです。

ふだんぬるぬるの人でも、彼のことはリスペクトするのはなぜだろう?

昔は理解ができなかったけれど、いまはその友人を観察したおかげで、相手のぬるぬるの原因は自分にある、自分がそのぬるぬるを引き出している、と考えるようになりました。

ちなみにそれは、「自分のせい」という意味ではないです。

こういう話をそう悩んでいる人に話すと、「わたしのせいなんですか??」と怒りだしたりすることがあります。(まあ定番ですが)

でも、まさにその感情(なにかを守ろうとしている)の奥に、自分の不運のマグネットがあるのです。

(関連コラム↓)

自分のエゴは自分に戦略を見破られたくない

 

ぬるぬるした人が寄ってくる、もしくは相手がぬるぬるタイプに変身するのは、一言でいえば「自分が差し出しているから」です。

たとえば、友人と旅行の予定を立てるとします。

わたしのその社交的で健全な友人は、無駄に他人を背負いません。というか、自分の好きなようにやる。

「じゃ、現地で会えたらいいねー」くらいの感じです。

一方で昔のわたしは、いろいろなリスクを考えて、みんなのために完璧なプランを立てたりしていました。

それなのに必要な連絡が来なかったり…、

このタイトルの記事を読もうと思った人は同じタイプだろうから、そういうことをがんばってしまうとあとでどのくらい苦労することになるか?は想像ができるでしょう。笑

そして予定通りにいかなかったときなどには、自分が申し訳ない気持ちにまでなったりする。

 

英語には、こうなってしまう人を表す言葉があって、それは「ニーディ」と言います。

日本だと「いいひとー」とか言ったりしますが、その感じも「ニーディ」という言葉のニュアンスが理解できていくと、ぬるぬるの反対側の一部だなあと思うようになります。

ニーディとは要するに「役に立ちたい人」です。

それ自体は誰にでもある願望ですが、その出どころが「欠乏感」の場合は、健全ではありません。

欧米人はそこはドライだから、ニーディさを見せると他人に使われるよ、ということを小さいころから学びます。

そして、ニーディで必死な人を褒めない。むしろ少し軽蔑する。(自分を安く売るという意味で)

逆にニーディな人を褒めることで現実的なメリットを得ようとする人は、ウルフまたはシャーク(搾取者)…と見られます。

そしてたとえば自分の子供には、将来ニーディにならなくていいように愛情を注ぐことを、明確に意図して子育てをします。(経済的に裕福になれるように育てると社会的な安全が手に入る…の「心」版教育として)

日本のテレビでは、がんばって気を使う人に対して周りが人格者だと褒め称える場面をよく見るけど、そうやって褒める人たちのあまりの気持ち悪さによく震え上がっています。苦笑

 

 

相手はこうするべきだ!という思いで苦しんでいる人は、心が欠乏する中でなんとかがんばってきた人です。

最初にいろいろ差し出した。

だけど、思ったような利益が得られなかった。(自分のニーディの源の欠乏感を満たしてもらえなかった)

そういう思いが怒りに変わっている。

そして苦しいのは、最初に差し出したものが、自分でもほとんどもっていないものだったりした。

残り少ない大事なものを差し出した。

もしくは、心の借金をして、それを差し出した。(=がんばった)

そんな感じだから、怒りも膨らむわけです。

 

そうやっても感謝されるわけでないメカニズムとしては、

いろいろ差し出すことで自分が要求しているものが、目には見えないけれど実は高価なものだった…ということが理解できるとみえてきます。

たとえば、自分が贈り物をすると相手からのお礼の電話を期待します。

そのときに、「お返しなんていらない、お礼の電話だけくれたらいい」なんて思っても、そのお礼の電話(関心)は、実はあげたものよりも高価なのです。

そうすると相手は押し売りに感じてしまい、その感じを「ニーディ」と呼ぶわけです。

でも差し出している人は、自分が差し出しているものはがんばって差し出しているだけにお礼の電話なんかよりもはるかに高価で、

自分は与えている側だと思い込んでいます。

 

こう考えると、割り勘をちゃんとしないぬるぬるした人は、ふつうにメリットの交換をしただけ、とみることができます。

小さなTHANKSで十分じゃない?

進んで差し出すから受け取っただけだよ?

明確な悪意があるシャークな人は別として、ニーディな人の欠乏感を理解しているわけではない相手は、その程度のこととしてあまり深く考えてもいない可能性があります。

自分がニーディなときは気が付きませんが、ニーディな人を相手にしていると、その一連の取引が終わった後には「疲れた感じ」が残ります。

その疲れた感じとは要するに心理的に「損をした」ということなわけで、ニーディとは可哀そうだけれど、取引に巻き込まれることは危険…と言えるわけです。

 

心が健全な人はニーディな人にひっかからないし、自分がニーディなことでぬるぬるした感じに悩まされることもありません。

でも相手が本当に助けが必要なときには、差し出すこともあります。

たとえばお金を貸すのも、かえってくることはあまり期待していないし、ありがとうもとくにいらない。

逆にだれかがなにかを自己犠牲で差し出しても、必要がなければ受け取らない。

そういう姿勢が一貫しているので、人はそういう人の前だとニーディになる必要がないし、そういう相手には小手先の取引が通用しない(自分が差し出すものへのニーズがない)と感じるのだと思います。

人が純粋に親切をするときは、それがただ気持ちよいからするだけで、仮に相手に知られなくてもOKというような心境だと思います。

問題に発展する取引とは、ニーディとぬるぬるの間で起こる、お互いにニーズがある関係(ニーディは関心が欲しいし、ぬるぬるはニーディが差し出す現実的なものが欲しい)、…と言えるかなと思います。

 

自分がニーディな場合は、自分は欠乏感に苦しんでいて、可哀そうではあるけれど、危険な状態です。

子供に感謝を求めたり、部下に尊敬を求めたり、必死な自分と同じくらいのがんばりを相手に要求したりすれば、

なにをしてあげようとも相手の心には請求書が溜まっていくので、いつかは去らぜるをえなくなってしまいます。

そこに上下関係を持ち込むと、自分は与えているつもりでも、それはもはや心の「略奪」です。

「重い」と言われてしまうような人は、まさにそんな苦しみの中にいると思います。

重いというのは、与えたものが重いのではなく、相手からすると請求が重い、怖い、わけです。

相手はそんな理由で逃げるわけですが、去られてしまう方は自分を被害者だと感じてしまう、とても悲しい苦しみです。

 

自分がニーディにならないために、またニーディな人を相手にすることによるリスクから身を守るためには、どうすればいいか?

それはやはり、欧米人がやるように自分や他人のニーディさを、ドライに理解していく必要があると思います。

自分の子供をどちらの意味でもそういうことから守りたい場合は、大元から取り組むのなら、欠乏感の次元を意識させないこと。(心の…ね。経済はあまり関係ない)

ニーディになる必要がない愛情を注ぐこと。

自分がニーディな場合は、自分の欠乏感への理解を深めること。

ニーディを正当化する思考(相手はこうするべきだ)に巻き込まれずに、ニーディにならざるをえなかった、欠乏感に苦しんでいる自分を温かい目でみること。

ニーディになることによる利益は、最後は相手が去るのだから、ありそうで実はないことを見極めること。

ニーディを満たす活動よりも、本当の意味で自分の心を満たす方向へ向かうこと。

具体的には、まず差し出すのをやめること。(ワリカンでいいかっこしないこと。笑)

相手の反応を必要としない、自分が好きなことをやること。

自分と同じニーディな人を褒めることで、自分のニーディを正当化するのをやめること。

恐れや欠乏感から気を遣う人や自己犠牲するニーディな人を、絶対に褒めないこと。(褒めて!というプレッシャーに負けずに!)

その代わりに、そんなことしなくてもあなたは素晴らしいんだ!という精神的態度で接すること。

自分の場合は、自分が自分にそうやってあげること。そういう時間をしっかり毎日の中でもつこと。

…という感じかなと思います。

 

わたしは子供が生まれたときに、自分がニーディであることに気が付きました。

それまでは自分は利他的でいいやつだとすら自分で思っていたので、とてもショックでした!

でも、自分が「できた親」のつもりで子供に請求しまくってしまうようなことはどうしても避けたくて、(自分がそう育って苦しかったのもあって)

こんなことを考えてきました。

 

 

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