母の愛は代替は不可能だけど、でも…
「父親の愛が足りなかった」と相談されることがあっても、
話を聞いていくとやっぱり「それは母親なんじゃないかなあ」とわたしは感じることが多い。
父親という男性の愛が足りないと感じていたのは、自分ではなくて自分の母親。
そして人間の心はやはり母親の心をコピーしたものから始まっていることが多い。
それはたとえば自分が乳飲みねずみだとして、母がいなく、たとえ父ネズミがおい元気か?と声をかけてもなんの役にも立たないような話。
これならどうだ?と捕まえてきたバッタを差し出されても、乳飲み子には意味がない。
人間の場合は粉ミルクというものもあるけど、
ぼくらのDNAには母親が自分の生死を決めているという感覚が深く刻み込まれている。
ネズミからもう少しだけ進化した人間の心にとって、父親の愛がさらにどう影響するかは興味深い。
でもそれ以前に、母親にとっての配偶者との関係として、父親は自分の人生にも影響を及ぼす。
なので、母親がミルクを飲ませてくれたかどうかだけではなく、母親が幸せかどうか…というようなことまでが自分の人生を左右する…という感覚があり、
それは、ぼくらにはもう不要な尾てい骨がまだ念のためにあるのと同じで、もうしばらくは拭えない。
まあそれはハードウェアの進化というよりも脳内プログラムの話だから、もしかしたら数千年くらいで済むかも?でも今は進化のスピードも加速しているので、驚くほど短い可能性もある。(今日変わるとか)
だからこれは、母親との関係をうまくいかせましょうとか、お母さんは子育てをもっとがんばりましょう、というような話ではない。
考えてみると、母親の愛が足りないことは、ぼくらの生死を決めていない。
現代には粉ミルクがあるし、それを飲ませてくれる優しい他人も、たいていはいる。
もちろん古い脳は今でも母親との関係によって自分の幸福度(安全度)を測っている。
でも少なくとも大人になった今ではそれはもう過去の話だし、よく考えるほどに現実とはあまり関係がない。
母の愛は古い脳にとっては代替は不可能だけど、そしてだから足りなければ苦しいし、自分がそれができなくても罪悪感が苦しいけど、でも…
今はそれが変化している時代。
より生活が安心な大家族式をやめ核家族化したのも、それなのに配偶者が子育てや自分への関心がいまいちで苦しんだりするのも、
きっとその変化を大元から受け入れる決意の現れ。
それが足りなかった人やうまくできないという人を励ますつもりではなく、それは進化における「新しさへの挑戦」
で間違いないとわたしは思います。
しかし古い脳によるどうにも変えられない感情も真正面から感じるしかない