近い人から大事にする
わたしのいい人パワーは比較的少ないので、それをどこで使うかは、選ばないとなりません。苦笑
思えば昔は、それを遠い友人に使っていたことがありました。
高校生のころ、仲間に入れてもらいたくていろいろとがんばった記憶があります。
でも今のわたしは、外側よりも内側の方が明らかにいい人です。
わたしの家族に聞いてもらえばわかると思います。
自分の中にいい人パワーが余っているときは、遠い人に「いいね」をしたりすることもありますが、
あまりないときには、使う先を慎重に選びます。
近い人を大事にしたい気持ちは、誰しももっていると思います。
でもなかなかそうできないのは、遠い人を放っておくことが怖いから…だったりします。
いい村に属していないと生き延びれないかもしれない、
放っておけば置いて行かれるかもしれない、
最悪の場合は村八分になるかもしれない、
…というような恐れです。
その恐れが強いほど、あればあるだけの時間やいい人パワーを、遠い人に差し出すような選択をするようになってしまいます。
もう少し深くいくなら、
遠い人を大事にすることが結果的に近い人を粗末にすることになっている(近い人との時間が減っている)のであれば、それは「いい人」なのではなくて、ただ「ニーディ」になっているだけです。
近い人よりも遠い人を大事にすることをまるで人格が高いように言うことがあるけれど、心に欠乏感を感じている人ほどそうなりがちかなと思います。
わたしの場合は、物心ついたときからより遠くからたくさん集めようと無意識にもニーディに生きてきて、幸せになるどころかどんどん虚しくなっていってしまいました。
だからこの10数年間は、自分にとっては新しいチャレンジをしてきました。
自分にとって大事な人との時間をなによりも最初に確保し、
断ったら怒るなあ…と感じた誘いや頼み事は断る、
年賀状は出さない、
などです!恐
そうやって生き方を変えた当初は、恐れていた通り、多くの人間関係が壊れてしまいました。
それは、わたしのもともとの人間関係の多くが、わたしのニーディさで成り立っていたこともありました。
一方で、わたしが差し出さなくても、とくに変わらずわたしのことが好きな人もいたことが分かり、
「自分もそうしたい」と支持してくれたり、かえって近くなった関係もありました。
そして自分が大事なものを優先するようになると、不思議と相手にもそうして欲しくなり、相手を自由にしてあげることができるようになりました。
簡単に書いてしまいましたが、こういうことは、心に愛情の欠乏感を感じながら育ったような人には至難の業ではないかと思います。
できるだけたくさん食べたい!と自分の中の恐れが叫んでいるのに、クオリティを選ぶような余裕はないからです。
でもそういう人が恐れに負けずに遠い他人よりも近い人を大事にすれば、その近い人は温かい気持ちになり、その結果自分も温かい気持ちになるだけでなく、
この世から欠乏感が少し減る気がします。
近い人を大事にするというアイデアは、「正しいからそうする」というようなものではなくて、
自分のメリットを最大にしたいだけのエゴ(=生存本能)による発想であることに違いはありません。
ただ、遠い人を大事する手法よりは少し新しい気がします。
そんなチャレンジは、世界を平和にしていくと思うので、進化の神様から見てもとても貴重ではないかと思います。