愛されていないと感じたら
どれだけ自己犠牲をしても、愛されないことがある。
逆に、自己犠牲の力が尽きてなにもできなくなっても、愛されることもある。
でも自分の愛?もそう。
あれもこれもしてくれるから好きと思うことがある。
でもなにもしてくれなくても、相手が楽しそうにしてるだけで嬉しいと感じることもある。
むしろ気を遣わないで欲しい。
自分のために幸せに生きて欲しい。
まあこれもキリストの感じる愛とは違うんだろうけど、その感覚は、生存競争に血眼な自分から湧き出す、たぶん最も愛に近いもの。
そしてそれは、相手にもよるし自分の状態にもよる。
すごく出やすい相手もいるし、絶対に出ない相手もいる。笑
また、同じ相手でも出るときと出ないときがある。
自分が満たされいるときは、多くの相手に対して、自分の愛は無条件に近づいていく。
でも生物として余裕がない状態のときは、愛を出す余裕はない。
それでも出そうとすれば、なにかお返しを要求するような「条件付き」になる。
そしてからっぽのときは、出そうとがんばっても出ないか、もしくは要求だけになる。
だから、
あのとき愛されていない…と感じたのは、
相手の心というよりも、「生物としての状態」だけの話だったのかもしれない。
愛が出ないときの自分を許せるようになると、
もらえるはずだと思っていた誰かからもらえなかったときに、
自分が楽になれるかもしれない。
真っ直ぐに「こうして欲しい」と願うのもまた人間だよね
と思わせてくれる真っ直ぐな歌