喫茶店で大声で話す人に腹が立つんです

苦しみを生み出す大元を解決するには、ときに自分をエゴを論破する必要があります。

そのためには、極端な例を見つける方法が有効です。

自分の感情が乱れたときがそのチャンスです。

 

たとえば喫茶店で大声で話す人に腹が立った(=苦しんだ)としたら、

外国の喫茶店はこんなもんじゃないはずだ、

というような感じです。

ひとつでも反対側の例が見つかれば、「喫茶店で大声を出す=悪」という「法則」はなくなります。

 

エゴは目の前のことに腹が立ったというよりも、記憶にある過去の危機と照らし合わせて、それと似た状況に置かれているから腹を立てるモード(戦闘モード)になっているだけなわけですが、

エゴ自身はそれに気がついていなくて、エゴは目の前のもののせいで自分は腹を立てていると信じ込んでいます。

そして、エゴの主人であるぼくら自身がそこを理解できないうちは、同じような出来事(エゴの反応)が繰り返し起こります。

 

理解するためには、とにかく反対側の例をたくさん見つけます。

たとえば喫茶店でも、ワイワイガヤガヤで楽しい気持ちになる人もいたり、

自分も場合によってはそういうバージョンになることもある。

海外旅行中の心が自由な自分ならどう感じるかな?とか、

もし自分がいつでも席を立って次のカフェへ行けるような心の自由があったら?とか、

もし混みあったカフェでのつかの間のリラックスタイムが不要なほど優雅な人生を送っていたら?とか、

試してみれる思考はたくさんあります。

 

同じ出来事が起こっても腹が立たないバージョンの自分がたしかにどこかにいることが分かると、自分がこの自分特有の理由で腹を立てていることに、まず気がつきます。

やりたくもない仕事で忙しく働かなければならないことに腹が立っているのかもしれないし、

302円もするコーヒーだったのに!と要するに自分からなにかが失われたような気持ちになって腹を立てているのかもしれない。

そうすると目の前のマナー違反はきっかけに過ぎず、本題は別にあって、要するに自分は自分の心の痛みを訴えているだけなことがわかります。

 

さらにもう少しディープにいくなら、

たとえば、そのマナー違反をする人とはどういう人か?というと、自分が自分に強く禁止していることをあっさりやる人だったりします。(わたしの場合はこのパターンが多い)

自分はかつてのだれかの言いつけをまじめに守って大声出さないように生きているのに!という感じです。

その場合、本当の自分は「それをやりたい」わけで、それをやっている自分が本来の自分、なわけです。

だからそういうことが平気でできてしまう人に、無性に腹が立ってしまう。

その悔しさが、エゴが自分に分かってほしいことなんです。

相手や環境を責めているようで、実は自分に腹が立っているんだなあ、

要するに自己嫌悪だったなあ、

もっと言うなら「悲しみ」だったんだなあ、

という発見に至ることが、個人的には多いです。

 

あともうひとつ、これはほんとよくあるなあと思うのは、マナーを注意すると、脳内に快感物質が放出されるんですね。

それは、自分が吠えたら相手が自分の縄張りからいなくなったような単純な快感に似ていて、自分が強くなったように感じるのです。

その場合のマナーの知識は、それが手元にある中で最強の武器だから使っているだけで、要するに勝っていい気持ちになりたいだけなんです。

そのマナー違反を注意することによる快感物質の依存症になっている人は、とくに日本人にはものすごく多い気がします。

日本人が持つことを許されている唯一の武器、という感じなのかな。

要するに、マナーの正しい側とは権力なんですね。

そしてそれは、生物的には弱くなっていく老後にでも使える、数少ない武器でもあります。

年を取るほどマナーに厳しくなる理由はこんな感じかなあなんて思います。

わたしもいつの間にか自分がそういう狩りのモードになっていることがあって、驚くことがあります。

そういうときは決まって、自分が弱いと感じています。

そういうときの自分は、マナー違反を注意したい、それによって強くなりたい、自己重要感を補給したい、

だからそのためにわざわざマナー違反を探しているわけです。

マナー違反が大嫌いなのに、次々に目に飛び込んでくるのは、自分がそれを無意識にも欲しているからです。

そうすると、後輩に楽屋にあいさつにきてほしくて必死な先輩芸人も、公園で子供のマナー違反をずっと見張っているおじいさんも、規則に厳しい先生も、厳格なあなたの父親や母親も、そしてそういうモードのときの自分も、

マナーに厳しい人は、みんなただ自己重要感に飢えているだけなんだ…自分の弱さに怯えているだけなんだ…ということがわかってきて、世界の見え方が変わってきます。

 

という感じで、この探求は驚きの発見の連続です。

エゴを論破するのは、自分のエゴをこらしめるためではないんです。

どちらかと言えば癒すためで、過去の危機感の中で不要なものを捨てていくような試みです。

自分がどれだけ無駄にがんばってきたのか、自分の心がどれだけ不自由だったのか、どれだけ恐れてきたのか、

その探求は、腹が立った数だけ楽しめます。

 

そうやってエゴとの議論が終わったら、その店を出ます。

そしてもっといい店に自分のエゴくんを連れていきます。

コーヒー1杯1200円とかの店です。

ここはクレイジーなほどいいです。

そこまでやれると、エゴ(古い観念が生み出す感情)はついに観念して、ハッピーになることを自分に許してくれます。

すると、喫茶店で大声で話す人=怒りという脳内の反応プログラムは、新しいものに書き換わります。

(でも、エゴとの議論がまだ終わっていなくて古い観念がそのままの段階で、自分への慰めとかでこれをやっちゃだめですよ。やってしてしまうと、エゴはゴネると美味しいものがもらえると勘違いして、美味しいものと不幸がいつもセットになってしまうので。笑)

 


ここのカプチーノにはわたしの手ごわいけどかわいいエゴくんもかなわない。(1200円ではないのに十分)

わたしが日本一好きなカフェ→http://www.natural-cafeina.com/

 

 

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