サステイナブルな助け合いの仕組み(承認欲求の健全な扱い方)
昨日のつづきです。
あのあとお客さんと話していたら、助け合いもいろいろあるよねえという話になりました。
ボランティアの人に助けてもらうのは気を使うから苦手だという人もいるそうだし、
また裕福な人が寄付をしたりすると、とくに日本ではなぜか叩かれたりすることがある…
たすけるほうもたすけられるほうもいろいろ大変だなあと思いました。
そういえば昔チャリティコンサートのインタビューかなにかで、
「チャリティは相手から感謝を受け取るのではなく、オーディエンスから称賛として受け取るのが健全なんだ」
というような話を聞いたことがあります。
助けられる側はただ受け取るだけで、助ける側はヒーローとして、そしてオーディエンスはそのヒーローを支えることで関わるとチャリティは効率的、というような意味だったと思います。
助けてくれる人に気を使ってしまうのは、「ありがとうを要求されているのでは?」と感じてしまうからではないかと、自分も正直そう感じることがあるので思います。
このブログでは「ありがとう」は「心のお金」として本物のお金と同等かそれ以上の価値をもつと考えているので、その気持ちは分かります。
そしてもちろん「ありがとう」を欲しい人の気持ちも、自分が欲しがることもあるので分かります。
ただその場合は、人助けというよりも心の世界における商いに近い…という理解です。
理想的には、心のお金は相手からは受け取らずに、第三者から受け取る。
人助けをする人をヒーローとして、そして周りは称賛(心のお金)や寄付(現実のお金)でそのヒーローを支えるというアイデアは、とても合理的な仕組みと言えると思います。
実際欧米のチャリティはそういう仕組みになっていると思います。
ただ日本人にそれは難しそうだなあと感じてしまうのは…
一言でいえば「するい!」と感じてしまうからかなと思います。
それは両方へ対してのずるい!です。
ヒーローは称賛を浴びてずるいし、そしてたすけられる側は謙虚にへりくだってくれないと(心のお金を出さないと)なぜか許せない…
そしてその気持ちもよく分かるから、人助けをしたくても、または助けられることも、叩かれたり要求されたりするのが怖くてできない。
そんなオーディエンスの「ずるい!」がエスカレートすると、
助けられる側はしぬほどがんばらなければ助けられる権利はなく、しかも実際に助けを得るには心のお金が必要で、それが支払えない場合は受け取れず、
助ける側へも無私の奉仕しか認めないとなれば、助けたい願望をもつ人も、さすがになんの心の収入もなければ活動が続けられなくなる…
そして叩かれるくらいなら、助けずに罪悪感に苦しんだり、または助けを受け取らずに苦しんだほうがまし…
こういう心の貧しいサイクルは、誰が悪いというよりも、国の中で流通している心のお金が少ないからではないかと思います。
承認欲求は、人生や地球にとってもはや害のほうが多いかもしれない欲求ですが、
助け合いに限ってはまだまだ使える欲求ではないかなと思います。
というかそのために脳には承認欲求という仕組みが残っている…と考えても興味深いです。
- ヒーローがいたらできるだけ称賛し、心の経済の循環を支える…
- 自分が人助けをするときは、心のお金(ありがとう)を相手から直接は受け取らずに、できるだけ第三者から受け取る…
- 自分が助けられる側のケースでは、それを自分の価値として堂々と受け取る…
こういうことは、そもそも流通する心のお金の絶対量が少ない社会では簡単なことではありませんが、
でもいろいろな場面でこうなれると、助けたり助けられたりがもっと楽になって、個人的に裕福になれるだけでなく、
戦後に経済が復興できたように、心の本当の復興もそれに続けるかもしれません。
↑He is a Hero.
これはチャリティライブだけど、これを観ると、冒頭での歓声から始まる心のお金の動きが実際に見える(気がする)。
自分の「ずるい」という感情を自覚することもまた勇気…