心の人助けの限界
けがをした動物は助けないほうがいいという考え方もあるそうです。
どこかで読んだ話だけど、そう考えたことはなかったので興味深かったです。
そういえば昔アメリカのホストブラザーは、路上で車にはねられた鹿を見かけたとき、「ああいうときは銃があればうって楽にしてあげるといいんだよ」と言っていました。
まあ普段ゲームハンティングが大好きな彼が言うとなかなかの違和感を感じたので…そのときはスルーしたけど、なるほどそういう考え方はあるようです。
たしかに、
動物にとってみれば、けがをした時点で自分がけがをしていることは受け入れていて、その上でどうやって生き延びるか?というモードにすでに入っている…ということは想像ができます。
人間から見ると、けがが治ればもっと良い生活ができるように思うけど、動物にそういう思考はありません。
そんなとき、恐ろしい何か(人間)が近づいてきて自分を捕まえてなにかするなんて、動物にとっては恐怖以外の何ものでもない…
たとえそれが親切な人で本当にけがを治してくれたとしても、いあやありがたいなあ~なんて感じることはおそらく少しもなく、
動物にとってのそれは恐怖のトラウマ体験でしかなかった…と見ることができます。
なるほどもしシビアに自分の中から自己陶酔を取り除いたとすると、こちらのほうが神様がぼくらにやっている感じの愛に近いかも…
と思わなくもないです。
このタイプの愛?になぜか勇気が必要なのは、そこに世間体や罪悪感なども隠れているからかなと思います。
人間の場合は、身体にけがをしたときは治ったほうがいいと自他共に考えられます。
だから、けがをした人がいたら「助けたい」となんの躊躇もなく考えられると思います。
ただそれが心の傷の場合は、もう少し動物のケースに近い…というか、そう簡単にはいかないかも…という気もします。
心が傷つくと、人は自分の心を守るために、生存本能によるサバイバルモードが全開になります。
それが高校生以上だと、たすけようと近づいたときにかみつかれた場合は、こちらも危ない。
だから力を貸すことができるのは、自分が傷ついていて危険なことを自分で理解ができている相手だけ…
そしてそれが人間にできる心の人助けの限界…
と一般的には言えるかなと思います。
ではそれが個人的に大切な人の場合はどうか?
その場合はみんなもっと踏み込んでいくだろうと思います。
ただ、関係が近い場合もまた難しい気がするのは、
ぼくらがよく言う「あなたのために」は、そこにからむ心の損得勘定も複雑だからです。
たとえば相手を「助けが必要な人間」と見ることは、無意識にも自分の存在意義(心のお金)を得ることが目的の場合もあるかもしれません。
または相手の人生にとって必要な試行錯誤を、自分が見るのが辛いという自分の都合で、おせっかいをしてしまうこともあるかもしれません。
まあそういうことがぜんぶ悪いということではないし、それを言ってしまうとどんな人助けも…あとは商売もできなくなってしまうけど…
だから心の人助けというのは難しいもんだなと思います。
結局わたしは鹿を助けようとするのか?そのままにしておくのか?それともうつのか?…正直分かりません。
ただこうやって考えてみたあとには、優しさだけではなく自分側の罪悪感や恐れからくる判断でたすけることになってしまうことまで含めて、
ケースバイケースでぜんぶあり得る気がする…
人間の場合はさらに複雑で、もっと分からないので、今日はとくに結論はないですが、
こういうことは毎回精一杯考える(もしくは感じる)しかないのかな…と思います。
(わたしが困っていた場合は無条件でたすけてくださいね。まちがってもうたないように。笑)