古い観念を直視すると、結果的に幸せになれるのはなぜか?
自分の中の古い観念を直視する修行は、おもしろい。
もちろんそれは、苦しい。
でもその苦しさや罪悪感をつかって、それと似ている感情を記憶の中に探すことができる。
それはなにかが「できるかできないか?」のテストではない。
できるかどうかよりも、
「この観念があるからこう感じる」というような「自分の心の構造を理解すること」が目的。
科学者が実験で興奮するのときっと似ている。
「なぜこう感じるのか?」
が理解できるたびに、それは「進化」。
言葉遊びではなくて、本当に脳が進化する。
どういう意味かというと、
自分の感情の原因が自分の心の構造にあることがわかると、
目の前の問題の見え方が変わる、
脳内の感情回路がつなぎ変わる。
それまではその出来事のせいだ、という感情が出ていても、
新しい発見の後では、出来事と感情が必ずしもリンクしなくなっていく。
そうすると、同じ出来事が起こっても、自分の反応が変わってくる。
現状では、ぼくらはまだおサルのころの動機で生きている。
脳内のそういうホルモンに、全人生活動を任せている。
驚異的な思考力も、そのためのしもべに過ぎない。
人間らしいと自分で思っている…例えば「いい人になる」というような考えも、生き残りの技術に過ぎない。
親切の多くも、毛づくろいと同じ動機に過ぎない。
自分が愛だと言い張ることのほとんども、恐れに過ぎなかったりする。
自分は不幸だと思っていたのは、関心が欲しかっただけ。
親切も、いい人も、愛も、不幸も、
自分の中のおサルが欲しいものを得るための舞台装置に過ぎない。
自分の中のおサルは幸せになりたいんじゃない。
というか幸せが理解できない。
欲しいものを欲しいだけ。
不自由になろうが、苦しもうが、不幸になろうが、欲しいだけ。
そういう自分の旧いホルモン(エゴによるトリック)を見抜けて、笑えたら、問題は消える。
古い観念を直視すると苦しいけれど、
結果的に癒されるのは、幸せになれるのは、
そうすると進化するから。
自分の中の旧い部分の脳(偏桃体など)は、勝つ=幸せ、というか快感だった。
でもまだ目覚めていない、主体性をもったことがない新しい脳=人間の部分の脳は、
進化=幸せというプログラムになっているはず。
(次は「滅ばない」が課題だろうし)
来る日も来る日もネガティブな感情におそわれて、
そんな苦しい思いまでして人類の進化の一部分を引き受けようとしてきた自分を、
今日は褒めてあげよう。
自分の中の2%の人間の部分で、
残りの98%の、がんばらなければ生きていけないと思い込んでいる、
戦いに、競争に勝たなければ、しんでしまうと信じ込んでいる、
怖くてたまらない、
怖さしか感じれない、
自分の中の一生懸命なおサルさんを…、
かわいがってあげよう。
(どう進化しようとも、人生最後のときまで一心同体なのだから!)
U2が表現する「ぼくらはおサル!」。アートっていいもんだ。すっと入ってくる。