「あいさつとは100円」と考えると新しい生き方が見えてくる
(今日は少し毒をはきます。謝)
あいさつとは、100円なんですね。
誰かに挨拶をするとき、100円をあげているんです。
あいさつをお金に換算するなんて…そんな世知辛いこと…と思うかもしれないけど、
でもあいさつにはそういう類の価値が確実にあると思います。
あいさつが100円ということになると、いろいろ世の中の見え方が変わってきます。
日本人がなぜこんなにあいさつに執着するのかも、理解ができていきます。
気持ちの良い挨拶は200円くらいです。
わたしが、好きな人に「おはよー!」というとき、わたしは気前よく、相場の倍の、200円をあげてます。
わたしは好きだからあげたいだけなんだけど、そういうときはなぜか向こうからも200円返ってきちゃって、まあいいんですけど、
なんだか体内をめぐる血液みたいだなあと。
(もちろん利益は出ないし、出すつもりもない)
一方で中学のころ先生に「あいさつしろ!」と言われたときは、絶対に出すものか!と思いました。
できるだけ80円くらいに抑えたし、ときには怖かったけど意を決して払わないこともあって、そうしたら殴られました。
(これは奴隷売買の話ではなく、学校の教室での話です。昭和はまだそんな時代だった)
書いていたらなんだか腹が立ってきたので続けると、苦笑
その先生は挨拶しろと毎朝言っていたし、会うたびに生徒に挨拶をさせていたので、
一日に受け取る額は、1万円以上はあったと思います。
要するに、教育というよりも「収入」だった…という見方になってみると、
どうりであいさつさせようと必死なわけだ…と今なら理解ができるし、
まあ心のお財布の事情もあったのかもしれないから、多少の同情もできます。
ただ比較のために考えると、それと同じ額を路上で得ようと思ったら大変です。
自分は出さずに相手にのみ出させるという好条件でいっても、100人くらいから自発的にあいさつをしてもらう必要があります。
まあ無理でしょう。
∴「権力」というものには、手放し難い魅力があると思います。
ビーバップハイスクールをみた中学の先輩が先生に反抗するのをみてかっこいいなあ!と思ったら、後輩にあいさつしろとか、
あいさつをしない生意気なすばらしく新しい新人芸人が、先輩になると後輩にあいさつしろとか、
野球部の監督が、整列させて軍隊みたいにあいさつさせたり、
でも自分に直接させるとなんとなく後ろめたいから、グラウンドに向けてさせることでマネーロンダリングしたり、
あいさつによく来てくれた君には注文をあげよう!という感じだった昔の取引先とか、
そこにあいさつしちゃった自分とか、笑
まあとにかくあいさつを100円だとみると、いろいろ興味深いです。
仕事でも、あいさつを出させることを管理するような経営は、従業員の仕事をする力を仕事とは全く関係のないところで失わせている可能性があります。
ちゃんとお給料を払っていても、礼儀?を厳しく取り立てていれば、心のお金まで含めた収支では赤字なので、人が去っていっても不思議ではありません。(心が損をしても去らない人は逆に心配だ→ニーディについて)
欧米では、こういう心理的なトリックがすでに解明されているからか、チップ制に落ち着いているようです。
レストランで笑顔の挨拶が欲しかったら、チップをはずむ客だと思ってもらう必要があります。
日本の企業は、従業員の笑顔や親切を義務感で引き出そうとし、それをまるで人間性…みたいに言うけれど、
そのやり方は、近いうちに限界が来ると個人的には思います。
おもてなしサービスの社内コンテストみたいなのをやっている会社を見かけたりすると、大きな会社は心が飢えたお客様もそれ(心のお金)を求めるのだろうから仕方がないんだろうけど、
体育会系の直球がうっかり清々しく見えてくるほど、…ダークだなあ…と思います。(技能の競争はいいと思いますが)
心を大事にしよう!と、相手の立場や欠乏感を利用して心のお金を出させるのは、心を大事にしていることになるのか…それとも奪うことを綺麗ごとに言い換えているのか…
従業員の心のお金を会社の利益に替えるそういう手法の是非については、
そろそろ日本でも議論が始まりそうな予感がします。
今のうちに心のお金までを含めたフェアな思考を心がけておくと、仕事でもそれ以外でも、時代を先取りできると思います。
あいさつで利益をあげるには、考えるほどに権力や暴力を使うくらいしか思いつきません。(あとは有名人になる)
まあそうなってしまうほど欠乏しているのは仕方がないし、
自分のエゴ(=生存本能)にとっては、あいさつ制度がなくなると既存の収入源を失うことになるので、とてもとても難しい話です。
また、自分が下?(下とか上っていったいなんだい?猿山の話かい?は今回はおいとく)の立場としては、自分の心のお金をどう扱っていくのか…
とにかく差し出してニーディになって生き延びるのか、とりあえずはしたたかに下を演じるのか、それとも反発して殴られるのか、笑
選択肢はいくつかあると思いますが、
これから開国へと向かう日本において、そういう取引が通用しない外国人とどんどん混ざっていく中で、その変化に対応する力を自分に残しておくには、
自己肯定感を無駄に下げてしまうような選択はしたくないものです。(が、社会に殴られるような不利益もあほらしいので避けてほしいです…笑)
人間のエゴは、今満たされるなら後のことはどうでもいい…と考えます、というか後のことは考えません。
そんな近視眼的な生存本能であるエゴに人生のすべてを委ねてしまうリスクは、とくに最近ではどんどん高くなっていると思います。
自分のエゴが上?でも下?でも、関心を払ってあげられると、(なぜそうなってしまうのか?を考えてあげられると)
仕事でも子育てでも、新しい時代を迎える準備が整うと思います。
(関連コラム)
そうは言っても、中年はかわいそうだ…↓
無償で褒められたことなんてたぶん一度もない日本人、とくにあらゆる場面で奪われる一方だった昭和生まれにとっては、上下関係は唯一の心の収入源だったりすると思うので…。
わたしもあるとき(子育てを機に)上下関係を断つことを決めてから、その禁断症状から抜け出すのに、少なくとも5年はかかった気がします。
でも、そのおかげでいろいろな面で生きるのが楽になるなど(子供がわたしよりも心が健全に育ったなど)、進化の神様からギフトももらった気がするので、
昭和世代にとっては、チャレンジする価値が大いにあると思います。
今日の一曲
体育会系のせんせーに殴られたぐらいで根に持っているようでは、もしコンプトンに生まれていたら、3日と生きていけなかっただろうな
ふだんヒップホップは聴かないけど、この人のは最近よく聴いている
言葉は激しいけど、心優しい感じ
人間性の探求における「理不尽な権力への怒り」というテーマを扱う超難関ルートの最先端を、
いま独り登っている…のだろうなあ
どれだけの重圧だろう
心から尊敬