心のお金はコインゲームのコインと似ている
過去にわたしから去って行った人は、わたしが心のお金を請求し過ぎてしまっていたからだった、と今なら分かります。
とはいえ、20代まではそういう自覚はなくて、たとえばおごってあげて「ごちそうさま」をいわない部下に腹を立てたりしていました。
だからスタッフにやめたいと言われたりすると、こんなに与えているのになぜ?、くらいに思った覚えがあります。
最近そういう摩擦がなくなったのは、自分の脳が自分に仕掛けるトリックに自分で気がつくようになってきたからかなあと思います。
わたしの場合の変化は、自分はひとの関心に飢えていたんだなあ…ということに気がついたあたりから始まりました。
そしてそんな…、ないものを、奪わずに、どうやって満たすの?
という問いへの答えが、わたしにとっては禅でした。(すごく探したけどほんとうにそれしかなかった)
実際に瞑想に毎日取り組んでいくと、自分を満たすために…というよりも、満たそうとがんばっている器も、その器を満たすためのジュースも、どちらも幻なんだ、ということが分かっていきました。
分かったからといってすべてが解決するわけではないし、渇望感もまあそのままなわけだけど、でもそれはどこかコインゲームのような感覚になっていきました。
子供が小さいころたまに遊びに行ったコインゲームでは、ルーレットに当たってたくさんのコインが出てくるとすごく嬉しいんですが、逆にコインがなくなっていくと、まるで本物のお金が減ったかのように不安な気持ちになりました。
でもゲームセンターを一歩出ると、「そういえばあれは本物のお金じゃないのに、つい真剣になっちゃったなあ。あは」なんて我に返ることができる。
要するに、なにも増えたり減ったりしたわけじゃなくて、脳内の電気信号ゲームを楽しんだだけだったわけです。
ぼくら現代人の多くは、そんな脳内の電気信号による心のお金の増減に、まるで生死がかかっているかのように憑りつかれ、他の関心(心のお金の一種)を追い求めて外を走り回りながら生きています。
それが「減った」ときに自動的に発動してしまう脳のサバイバルモードは、モードに過ぎなかった、
幼いころのトラウマであろう慢性的な欠乏感も、今となっては現実とは関係のない、ただの脳内の物語に過ぎない、
危機感でいっぱいの脳はなかなかそう考えさせてはくれないけれど、
でもたまにでも瞑想によって自分の脳の隙をつけると、ゲームセンターから出て外の空気を吸って我に返るようなことができる。
そうすると、コインゲームにまるで生死をかかっているかのように必死になっている自分を、少し笑える感じになれるのです。
今日の一曲