相性で仕事をしてもいい
わたしが個人的に「離しがたいなあ」と感じてきた相手は、わたしにとってはレアな人でした。
たとえばわたしが取引していた内装職人さんは、わたしは心から「払いたい」という気持ちで払っていました。(利益が大きかった現場では割増しで払ったりもした)
でも、そういう相手はそんなに多くありませんでした。
でもそれはその人がすごくできるとかいうことだけではなくて、なにか「自分ごとのようにやってもらえるありがたさ」みたいなことを感じていたように思い出します。
そしてもう少し心から言うなら、なんだかわからないけど要するに「好き」だった。
なら要するに、がんばって自分ごとのようにやればいいのね?好かれればいいのね?
というと、そういうことでもないところが難しいなあと思います。
そうやればいいことは、ぼくらはすでに百も承知なわけで、実際そう振る舞ってみたりはするけれど、
なぜかできない。
自分がそういう気持ちでないことは実は自分でも気が付いているし、それはたぶん相手にも伝わってしまっている。
そういうわたし自身も、できるときとできないときがあります。
でも「その違いはなんだろう?」と思うとき、それを「相性」と考えるとしっくりきます。
ただ相性という言葉は、ぼくら日本人には少しやっかいだと思います。
終身雇用だった時代は、相性が合おうが合うまいが、どうやってうまくやっていくか?がテーマだったと思います。
また小さな島から出られなかったぼくら日本人は、元来相性なんていう贅沢な言葉には縁がなかった…とも言えると思います。
自分の好みや相性について考える機会なんてなかったし、もしかしたらそういうことは無意識にもタブーになっていたのかもしれません。
でも時代は変わって、現代は(とくに最近は)動けないわけでもないし、選べないわけでもありません。
自分が親身になれて、それが相手にとっても相性が良ければ、そうでない場合と比べて比較にならないくらい安全だし、利益にもなります。
そしてそれは双方に言えることです。
努力でそうなるには、まずは造り笑顔と完璧な相槌を練習するところから始める必要があり、道のりは月ほど遠いように感じます。笑
でも相性が合うならば、そんなめんどくさいものは吹き飛んでしまいます。
その代わり、心理的抵抗は、がんばって必要とされようとするよりもはるかに高い。
そもそも相性の良い相手と出会うためには自分を出す必要があるし、その結果、もしかしたら去られてしまい、傷つくこともあるかもしれない。
でもそういう恐れさえ乗り越えて、自分も自由、相手も自由、と考えてしまうことができれば、相性の良い相手に出会っていくことは可能になります。
わたしも気を使うタイプとして苦労してきたけど、こう考えるようになってから、仕事がとても楽になりました。
この話は、自分の好き嫌いを自覚できていたり、今現在相性が合わない人と仕事しなければならないことに悩んでいる人に話すと、なるほど!と言ってもらえるのですが、
悩みが漠然としていたり、また人間関係がそこそこ上手にできてしまう人にはピンとこないことがあるようです。
そういう人は、そこそこ波風立たないことが相性の良さなんだ…と考えるようで、漠然とした不満を感じている自分は感じ方が悪い…と自分を責める人もいます。
そんなときは、外で仕事をしている時間は、たとえば愛する家族とは会っていない時間なんだ…ということを思い出すといいかもしれません。
将来の不安を別にすれば、誰と時間を過ごすのも自由な自分の人生で、自分はなにを選ぶのか?
もちろん綺麗ごとでは済まない場合もあると思います。
それでも、家族などとの有限で貴重な時間を犠牲にしてまで、たかが食べていくためにやるわけだから、少なくとも「選ぶ」ことは、わたしならしたいです。
そして、それが相性がいい相手との仕事なら、現代人としては進化の過程としても十分に幸せな部類に入るのではないかな?という気がします。
戦後でもないのだから、だれとどこにいてなにをやるかについて、もうそんなに無理をする時代ではないんですよね。