自分を矯正して好かれようとがんばる道の果て

わたしは以前は、うまくいかないことがあると、それは自分が人間関係が下手だからなんだ…と思っていました。

でも今は、人間関係が下手…にも2種類あるなあと思います。

それは罪悪感を感じるケースと感じないケースです。

 

罪悪感を感じない場合は、人間関係が不器用でも問題なく生きられるようです。

芸人さんはそういうことを面白おかしく表現します。

わたしのある友人も、とても変わり者で自己中でほんとたまにいらいらするんだけど(笑)、どこか憎めないんです。

でも本人はそのことについて罪悪感はなく、好かれるかどうかにもあまり興味がないようです。

そんな彼を嫌いだという人がほとんどいないのは、とても不思議なのです。

 

一方で、罪悪感がある場合は、生きづらさを感じることがあります。

自分の個性はきっと好かれない、

ありのままでいたらきっと嫌われる、

どんな人間関係も長続きはしない、

させたいなら自分を相当抑える必要がある、

それでもやっぱり好かれたい、

でもそうやってありのままの自分を否定する自分の思考がだんたん辛くなってくる、

という感じです。

 

こう考えていくと、生きづらさを生んでいるのは、人間関係の得手不得手というよりも罪悪感なんだなあ…という気がしてきます。

罪悪感をもつ経緯は様々ですが、育児専門書によると、それはほぼ母親との関係で決まるそうです。(父親との問題に見えることも、両親の関係性を母親側として体現していたりと)

自分の特性が母親に好かれれば、自分は基本的には好かれるタイプだと感じますが、その逆もまた然り。

それは考え方というよりも感じ方なので、自分で選ぶことは難しいものです。

その後に社会で体験していくことは、その最初の観念を確認していくだけの体験です。

仕事も子育ても、これまでの人生のすべては、ポジティブでもネガティブでも「自分が最初に受け取った観念が枝葉を伸ばした世界に過ぎない」ということです。

ぜんぶは根っこを共有していて、その大元には「自分が自分をどう感じているか?」という最初の観念があります。

(お母さん方を責めているのではありませんよ。この文章で責められたと感じたお母さんは、自分の母親との関係について振り返り、「自分」と「苦しんでいる自分」を分けて捉え、「苦しんでいる自分」を癒してあげる機会にしてみてくださいね。母親についても、「母親」と「苦しんでいた母親」を分けて捉えられると、新しい感覚になれるかもしれません。)

 

性質と罪悪感は、本当は分けて考える必要があります。

性質については、

どんな性質でも、これまでにメリットがあったことがあったから、そういう性質が遺伝子に残っています。

たとえば、「周りに同調するのが苦手」なおかげで生き延びた先祖もいただろう…ということは、想像ができます。

仲間と一緒に行動していたことで丸呑みにされて全滅してしまった群れの中でも、群れについていけなかったことで助かった先祖もいたことでしょう。

現代の人間も、会社にみんなでしがみついて会社ごと沈んでしまうことはよくあるけど、組織の中でうまくやれなかったおかげで新しいスタートを切れたような人は、個人的に知っているだけでも何人もいます。

考えるほどに、どんな性質がどんな結果に結びつくかなんて、自分には理解できっこないなあと思います。

そこはもはや進化の神様の領域です。

ただ、日本で生活していると、「みんなと仲良くすること」が多数決的には「最重要」であることは、それが正解かどうかは別として、空気を読めない人でも感じることができます。笑

違うこと、できないこと、好かれないこと、空気が読めないこと、ついていけないこと、など、日本人は人間関係がらみの罪悪感をたくさんもっていると思います。

 

罪悪感については、

たとえば、ただ楽しくていいだけの家族生活が、罪悪感のせいで楽しくなくなることはよくあると思います。

でも、それが「楽しくないなあ」「本当は楽しくしたいなあ」と自覚できれば、自分が罪悪感に支配されていたことを理解できるきっかけになったりします。

子供に腹が立った時は、それに腹が立たない人もいるだろうにわたしが腹が立つのはなぜだろう?と勇気をもって考えてみると、「子供は、本当はわたしがやりたかったけどできなかったことをやっているだけかもしれない」と気が付けたりするかもしれません。

また、自分が元来の性質的にできないことをがんばって、がんばったから少しはできて、でもやっぱり完全にはできなくて、それで嫌われて、生き延びれないんじゃないかと怖くて、でもどうしようもなくて悲しかった思いが、できない子供への(できなくても全く問題がなくても)怒りに変わっているだけかもしれません。

夕食の時間が笑顔で、とくに直さなきゃならないマナーもなく、今日を反省する必要もなく、ただ笑顔のまま楽しいまま夕食の時間が終わってもいい。

眠りに落ちるときに、今日は楽しいだけだったなあ、と思っていい。

今日人と違ってしまったことも、できなかったことも、好かれなかったことも、空気が読めなかったことも、会話についていけなかったことも、それらはただの性質。

たとえば子供がそういう性質だと、自分が苦しんできた親は感情が乱れるけれど、

でも子供を自分の罪悪感とは分けて考えることができれば、夕食の時間は楽しいだけになれます。

そうすると、ありのままの性質で楽しい夕食の時間を過ごせた子供は罪悪感を抱える必要がなくなって、そのおかげで親が抱えたような苦しみを経験しなくてよくなるかもしれません。

自分の子供が幸せになると嬉しいのは、自分の遺伝子の夢が叶うからかもしれません。

 

「素の自分は好かれなかった」という体験からくる幼少期の罪悪感は、自分の人生における動機のすべてになってしまっていて、とてもやっかいです。

そんな中、ありのままの性質の自分で生きてみるようなチャレンジは、新しい種を新しい場所へ植え直すような体験です。

そのチャレンジは、恐れでいっぱいな自分の無意識なエゴが生み出すトリックでいっぱいです。

恐れでいっぱいな自分の無意識なエゴは、両親にありのままを好かれなかったという恐れを周りに投影しながら、自分を責めることで自分を抑え、なんとかして好かれることで生き延びようとします。

そして自分の恐れを見なくて済むように、周りにも同じことを要求してしまいます。

でも残念ながら、そうやって自分のエゴががんばって得た「自分ではないもの」が好かれても、当面はほっとできても、大元の恐れは消えるはずもありません。

 

ありのままの自分を出すと、子育てが当初の予定から外れてしまうリスクも、またこれまでうまくいっていた仕事がうまくいかなくなるようなリスクもあると思います。

それでもありのままを出して、それなのになぜか好かれたり成功したり、かえって生き延びれたりするような体験を探していくか、

それとも自分を矯正して好かれようとがんばる道を選ぶかは、その最初の一歩の選択で、到達する場所が全く異なっていくと思います。

 

 

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