もし奪うなら悪人として奪う方がまだまし…という考え方

この世に「悪」はないそうで、

あるのは、生存本能だけだそうです。

ライオンがシマウマを食べても、ハイエナがガゼルの子を意地悪そうに取り囲んでも、それは悪ではありません。

ただの生存本能です。

では、ぼくらが言う「悪」とはなにか?

それは、相手が強い場合、

弱い側がそれに対抗するために生み出した概念が、「悪」とのことです。

だから「悪」が存在しているというよりは、ただ「強い/弱い」「勝ち/負け」があるだけです。

今回は、自分の中のダークサイドの奥深くへダイヴします!心臓の強い方のみ読み進めてください。苦笑

 

 

と、あえて書いたうえで話に入ります。

悪人は、他者から奪います。

そして悪人というだけあって、全体の雰囲気からして悪そうです。

そんな悪人は、奪うときに、自分を悪人と自覚しながら奪います。

だから顔や態度が「悪く」なります。

弱者はそのときにもちろん身を守ろうとしますが、でも悪人はそのように分かりやすいので、

逃げ道を確保したり、弱い者同士でグループになって守り合ったりと、用心をすることは可能です。

それは楽しい時間ではないけれど、肉食/草食動物のように「これが自然界」という視点でみれば、たまに餌食になるのは仕方ない…とは思いたくはないけれど、

まあバランスはとれているのだろうと思います。

 

でも現代は、法やモラル?も整備され、生物的な弱者たちが強者を逆に食べることも可能になり、

もしかしたらバランスは逆側に振れている時代かもしれません。

そんな今、悪よりも怖いのは、偽善です。

偽善は、相手を上下関係や正論で責めて、身動きが取れない状態にしてから食べます。

そして食べた上に、落ち度は相手にあった、と言います。

その正論はツールに過ぎず、食べることがそもそもの目的です。(だから「偽」善)

たとえば芸能人なら、自分は表に出てしまっていて不利な分、匿名の偽善は、現実世界の泥棒なんかよりもはるかに恐ろしい存在に感じるだろうと思います。

 

ふつうの悪人が、「自分は悪人」という社会的なレッテルを代償として受け入れたうえで奪うのとは違って、

偽善は、代償を払わずに、奪います。

奪うことを正義として奪い、奪われた相手には被害者という慰めすら残しません。

まるで善人かのように近づくことで身を守るチャンスも与えず、君が悪いから罰を与えられているんだという論理によって、再起する力までをも根こそぎ奪います。

たとえば目上の言うことをきかない子供は、怒られ、謝らされ、自分が悪いのだから自尊心は奪われて当然…と思わされながら育ちます。

そして怖いのは、悪人とは違ってそんな…極悪は、自分が奪っているという自覚がないことです。

奪うこと(生存競争)は生命の歴史だけど、偽善はその最新かつ最恐バージョンです。

 

そんな極悪を幼少期まで辿ると、たいていは別の極悪に奪われた過去があります。

そういう人は、自然界では失えないレベルで失っています。

もっている自尊心を奪われるだけでなく、

たとえばハイエナに捕食されるガゼルの目に最期の瞬間まで残るような生きる力も、それよりもずっと前の段階ですでに失っています。

そうやって武器も防具もすべてとりあげられたうえで、初期の人生を生きなければならなかった。

そういう人にとってはそれが現実だから、他にもそうなりがちで、

たとえば「言うことを聞かない君は『悪い人間』だから『罰を与える』」みたいに、まるで一回につき二回ころすような、

自然界には存在しないレベルの極悪へと育っていってしまう…

この視点からは、奪うだけで責めない悪は、冒頭に書いたように、ライオンやハイエナのレベルに過ぎないかもなあという気がしてきます。

 

一般的な悪は、生命としてはまあ正常と言えます。

そんな悪は、お腹がすいたらなってしまうような可能性が誰にでもあります。

でも極悪は、お腹がいっぱいになっても解決はしません。

極悪は、過去に奪われただけでなく責められた人で、もともとは最高レベルの被害者です。

だから自分も極悪になるしか自分が失ったものを取り戻す方法はない…と無意識にも感じています。

無理やりまとめると、そういう悲しいことが減るには、そもそも子供時代に心が満たされて育つことが大事だと思いますが、

でもそのためには、大人にまず「癒し(=自分への理解)」が必要だなあと思います。(結論はいつもおんなじですが)

 

 

わたしは、「本来は善も悪もない」という概念を研究をしている立場だけど(まあ勝手にですが)、

でも今回は「悪」という言葉を使いまくってみよう、となぜか思ったので、思い切って書いています。

人を責めてしまって後悔したことがあるような人は(←だれのことだろ?苦笑)、いちどこういう観点から考えてみると、

もしどうしようもないほど奪わざるを得ないなら、悪人として堂々と奪う方がまだまし

…と思うようになると思います。

これは危険な香りのする思想だけど、自分で書いて、一理あるなあと思います。

子供を怒るなら、ちゃんと悪人として怒る。(伝えることが目的なら怒らない方が効果的。一応確認)

そもそも自分は奪うために怒りたいんだと自覚する。

悪い親だなあと自覚しながら怒る。

悪評の部分はせめて自分が引き受ける。

そうすれば、子供は奪われ傷つきはするけれど自分は悪くないわけだから、再起できるチャンスは残る。

そうすると自分も結果的に、極悪にまでは堕ちなくて済む…

 

こうやって自分のダークサイド(生存本能)を深く掘り下げたり、または他人のダークサイドを理解することにチャレンジしてみるような場合は、

悪だけでなく、その逆の良いとされている善のほうも、ないんだ、ただの生存本能による取引に過ぎないんだ…と、

冒頭に書いたように、「ないんだ」という足場を確保しておいてからやるといいと思います。

そしてせっかく足場を確保するのだから、どうせなら思い切り、全力でやるのがおすすめです。

というのも、わたしたちのエゴはわたしたちよりも賢くて守りも堅く、かつ傷が大きいほどパワフルなので、

本気でやらないと本題(エゴに必要なのは獲得や勝利ではなくて癒し)に入ることすら難しいからです。

 

 

 

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もう少し大きな観点からは、こういうことは…

弱いものへ弱いものへと受け継がれてきたジョーカーを、自分のところで消滅させてしまうことが可能な機会…という見方もできるかもしれません。

責められながら育ったような人が自分のところでそれを少しでも消滅させられたら、(がまんするのではなく、そうしたい欲望が理解によって消える「消滅」ね)

それはたとえば、現実世界における地雷除去と同じような価値がある気がします。

(極悪になるしかなかったような人に自分のことを理解してほしいと思ってわたしはこれを書いている。ぎりぎりを攻めているので伝わらないかもしれないが…苦笑)

 

 

 

そんなとき、こういうものはたすけになる↓

この人はここで書いたような意味での「極悪人」ではない気がする。

勧めておいてなんだけど、実はまだ観れないでいる映画。(評判を聞いた限りでは、心の準備が必要な感じ…苦笑)

 

そして「悪」について深く考えてみるなら、この映画は欠かせない…

2008年の方のジョーカー。超おすすめ↓

(ただのヒーロー映画ではないです)

人間のエゴが創り上げる綺麗事をふっ飛ばしてくれます。

 

観た後に町山さんの解説もぜひ聴いてほしい。↓

 

 

↓ちなみにスーサイドスクワッドのジョーカーは、乗っている車をみた瞬間に、行動の動機が一般人と変わらないことが判明してしまい、魅力は感じませんでした。(まあ重要なポジションではないからいいけど)

 

 

↓続きを書いてみました。(2020.12.08)

せっかくの罪悪感を余さず活用する方法

 

 

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