脳の多様性から考える、人間関係が苦手なタイプの生きる意味とは?
わたしは人間関係が苦手なタイプだと自己紹介することが多いんですが、
それは人間関係が器用なタイプが社会では多数派だから、自分たちが世界の中心だと思っているそんな多数派に分かりやすいように、彼らの観点から説明してあげているだけなんですね。笑
本当のところは、わたしは人間関係が苦手なタイプというよりも、グループの外のことに興味があるタイプなんです。
たとえば橋の上から川をのぞき込むと、いつも誰にも見えない魚がわたしには見えます。
あとは匂いや音に敏感で、もしこれが森の中で暮らす群れの中だったら、
「君がトラの接近に気が付いてくれたおかげで助かったよ!」なんて感謝されるタイプなはずなんです。
まあ都会で生活している分には不便で仕方ないんだけど…
一方で、もし異星人がやってきたら、わたしが最初に握手をしに行く役でも構いません。食べられるかもしれないけど、それよりも好奇心が抑えられない。
どんなタイプに生まれるかは人それぞれだと思いますが、わたしの場合はそんな組み合わせの性質になっているようです。
わたしの過敏な危険センサーは、ふつうに生活するにはなかなか不便なんだけど、でも会社経営では役に立ってきました。
わたしは「なぜみんなこの危険を感じないのか?」と不思議に思うことが多いんだけど、わたしはいろんな危険を匂いや音や色付きで感じてしまうんです。
仕事柄個人的に300人くらいの社長と知り合ってきたけれど、この会社は大丈夫だなとか、ここはあと10年だな5年だなとか、グループが今度どうなっていくかみたいなことが分かってしまうのですが、
社会へ出てから25年間くらいそういう観察を続けているけれど、いろいろ湧いてきた直感はほぼ当たったなあという感じです。
なんだか怪しい話になってきました。
運命を変えるにはこの壺を買うといいんだけど、それはのちほど。笑
脳の多様性なんて細かく分ければたぶん数えきれないほどのタイプがあると思うけど、今はまだ「空気が読めるかどうか」というところで、ぼくら日本人は手一杯ですよね。
欧米ではそのあたりは「個性」や「個人の自由」ということで片付いている話でも、日本は鎖国が長かったし、島国ですから、ぼくらにとっては「多様性」はとくに苦手科目ではないかと思います。
だから自分が少しでも列からはみ出すようなタイプだと、多数派に迫害されないように自分を抑えて生きてきました。
そんな日本における多様性は、全体としてはどのくらい発揮できているだろう?
個人単位で考えると、人によっては出る杭が打たれたり村八分がなによりも恐ろしいこの国で、その人がどのくらい我慢しているか?抑えているか?自分を偽っているか?がその人が無意識にも隠している未知の可能性、と言えます。
そして一番大事なこととしては、『その隠している能力こそが本来その人のメインであるべき能力』ということです。
脳の多様性から言えば、人と違う部分こそが全体にとっては必要な能力なわけだから、安易に周りに合わせるよりも、それを出すことこそが本当の意味での利他的な行動なはずだし、自分もその方がきっと幸せなはずです。
ブログ内容とはあまり関係ないけど、
↓このプレゼン感動的。英語の上手い下手なんて超越した個人の熱い思いが、世界にも伝わったと思う!
自分を超お坊ちゃまと開き直り、超少数派という立場を逆手にとって経営していく感じは、すごくかっこいい!
日本はこの人一人にどれだけ救われているだろう…
ジャパニーズスーパーヒーロー↓
祝スープラ復活!なんかまたトヨタを買いたくなってきた。
スープラとわたし(1993年inアメリカ)