「自己重要感」が理解できると分かる自分の心理と世の中の仕組み
ビジネスをしている人は、デール・カーネギーの「人を動かす」という本を読んだことがあるという人は多いと思います。
わたしも会社経営をしていたときに読んで、とても影響を受けました。これはリーダーが人を動かすための本で、わたしも当初はそういう目的で読みました。
でも何度も読むうちに、わたしが一番興味を惹かれたのは「自己重要感」についてでした。初めて読んだのはもう10年以上前のことですが、それ以来「自己重要感」という観点で自分や人の動機を観察してきました。
人間が最も欲しがっているものは、他者の関心
人間が最も欲しがっているものは、他者の関心です。「人を動かす」では、そのことが繰り返し強調されています。歴史上の偉大なリーダーたちも、そのことを理解していたから協力者を得ることができ、成功ができたそうです。
自己重要感とは「心のお金」のようなものです。でもよく観察すると、自分は自己重要感を本物のお金よりも大切にしています。
他人から自己重要感をもらうためなら、わたしたちはなんでもしまう。あんなに苦労して手に入れたお金もあっさり手放します。生活必需品と自分が言い張る多くのものは、自己重要感を補給するために買います。本の中では、自己重要感を手に入れる(他人の関心を得る)ためだけに犯罪をおかしてしまうような例もたくさん出てきます。
ではなぜ人は、他者の関心=自己重要感の前には、損得勘定すら忘れるほど「動かされてしまう」のか?なぜそんなに欲しいのか??そんな自己重要感の話に、「人間の進化の歴史」と「禅」、そしてあと少しの「子育て」の話を組み合わせて考えてみたら個人的にしっくりきたので、紹介してみたいと思います。
欲望の最上位としての自己重要感
自己重要感は心の食料と同じです。なければ死んでしまう(イマジネーションの中で)、と思っているので、必死に集めます。これは動物のころにやっていたことが、そのまま心の世界で起こっているだけです。
現実世界で食料を得る活動は、すごいスピードで進化してきました。最初は生えているものを食べたり動いているものを追いかけるだけでしたが、そのうちそれでは安心や満足ができなくなり、農耕へと進化していきました。
お金が発明されてからは「要するにお金を集めればOK」というところまで合理化することができました。現代では願望はさらに合理化され、「自己重要感に絞って求めるだけでいい」と脳は考えるようになりました。
他者との関係の中で重要な存在になりたいと願う自己重要感願望は、お金を集めるだけでなく、生きていくための最も効率的なモチベーションとして、最も重要な願望へと脳内で昇格していったということが想像できます。
ビジネスマンにとっての自己重要感
人は生活必需品については出費を最小限に抑えようとするけれど、他者から自己重要感を得るためのモノやネタには、出費を惜しみません。
だから、お客さんが自己重要感を手に入れられるような商品やサービスに組み立てられると、自分は大きな利益をあげることができます。
賢いビジネスマンは人間の脳の特性を研究して、人間が一番欲しがっているものが、いまや現実的なお金を抑えて自己重要感になっていることをいち早く発見しました。
でも自分についてだけは、自分が自己重要感を求めるのは要するにやっぱりお金が欲しいからなんだ、というところへ理性を使って一歩だけ戻りました。
もちろんそのお金を得る目的はいまやそれを消費することによって自己重要感を得ることであっても、その自己重要感を得る効率を最大にするには、やはりお金を得る必要があるんだ。だから、人々の自己重要感願望を理解した上でビジネスをすればお金が集まり、しかもそれだけでなく成功者になることによってリスペクトされる自己重要感も手に入るのだから、自分の自己重要感はそのときに結果的に最大化するんだ。これ以上の効率はないんだ。
…と感情に左右されずに理解し直したところが、現代のビジネスマンではないかなと思います。
自己重要感願望の矛盾
自己重要感願望は効率的です。たとえば他者に認められるといいことがある。動物のころならナワバリを尊重してもらえたりといったことです。
でも、ほしいのはその「いいこと」の方だったはずなのに、認められることのほうをいつの間にか目的そのもののように感じるようになってしまった。それは人間の脳らしい合理化の結果ですが、その代わりに困ることも増えてきました。
たとえば「お金さえ得ていればよい」と合理的に考えるようになってからは、お金を得る以外の生きる方法が分からなくなってしまいました。また自己重要感はそもそも生存のための願望だったはずなのに、自己重要感が不足すると、まるで傷ついて動けなくなった動物のように生きる力を失ってしまうこともあります。
それから、自分が損をしてでも差し出すものに人が群がってくると、大損をしているのに嬉しくなってしまうなど、もう願望が生きるための力に直結していない…。そのあたりが、現代を生きる人間の苦しいところではないかなと思います。
満たされたい。関心が欲しい。でもそれがなぜなのか?を合理化の歴史の中で忘れてしまったのです。
自己重要感と禅
脳内のイマジネーションの世界では基本的にはいつもおなかが減っていて、たとえ現実世界ではおなかがいっぱいでも、脳はその空腹感というか「欠乏感」に常に苦しんでいます。
慢性的にそんな欠乏感を感じていると、それを満たしたいと願う欲望は大きくなっていきます。仏教でいう煩悩とはこのことで、人間の苦しみの根源となっています。
求めているものは自己重要感なわけですが、自己重要感はどちらかといえば欠乏することによって生きるための力を生み出そうという仕組みなので、むしろ欠乏感のほうに意味があると言えます。そんな現代のわたしたちの人生活動は、永遠に満たされることがない宿命にあると言ってもいいかもしれません。
禅では、求めていたそんな自己重要感が、すでに存在目的すら失いつつある架空の物語の産物であるということを見抜き、だから「満たされなくてもいい」というところに気が付くための修行と言ってもいいと思います。
ふだんの私たちは、「どうやって自分を満たそうか?」という自動的な思考で常時頭がいっぱいです。でも禅は、それがそもそも満たす必要があるものかどうか?という観点の次元の違う問いと言えます。
自己重要感と生まれ育ちの関係
人生最初の自己重要感は、親にもらいます。親に存在を認めてもらうこと、大切に思ってもらうこと、その結果育ててもらうことなどが、人生最初の自己重要感願望の目的です。
その願望が満たされた子供は一般的に「健全」に育ちます。でも、たとえば育ててはもらえたけれど関心が少ないと感じたり、関心はもらえたけど大切には思われなかったと感じたりすると、子供の脳は欠乏感を感じ自己重要感願望を強めます。
子供の自己重要感は、大きく4つのレベルに分けられます。
- 無条件に認められる。
- よくできたら認められる。
- 存在を認識してもらえる。
- ネガティブでもいいから関心を得る。
不足していると感じるほど、妥協をしてレベルを落としながらもさらに強く求めることによって、自分を守ろうとします。
このときの学びによってできた脳の回路をベースに、人間は大人になってからも生きていきます。子育てが大切だというのは、人生における願望の源を決めてしまうからです。
自己重要感を可視化してみる
自己重要感は目には見えませんが、質量と価値みたいなものが確実にあります。人間はその質や量や価値を敏感に感じ取りながら、自分の中の自己重要感の増減を細かくモニターしながら生きています。
イメージとしては、自己重要感をまるでお金のように捉えてみるとわかりやすいかもしれません。もちろん目には見えないので、この場合は「心のお金」ということになります。心のお金は、たとえば褒められると増え貶されると減るのは、イメージがしやすいと思います。
ちなみに心のお金と現実世界のお金とでは、もちろん心のお金のほうが価値が上です。自分が無意味に高価なものを買ってしまうときなどは、自分はお金を手放して自己重要感を得ています。そうすると、自分が得た自己重要感に現実の値段をつけてみることもできたりして、そんな観点で自分を観察すると、自分の不可解な行動の意味も理解できていったりします。
自己重要感の取引はお金よりも複雑
自己重要感の取引はほとんどお金と同じではありますが、目に見えないぶんだけ少し複雑です。
また取引をしている当人が、なにを取引しているのかを理解しているとは限らず、あくまでも本能的に駆け引きをしているだけなことが多いのも、把握が難しい原因となります。
自己重要感の健全な取引は、わたしたちの精神生活を支える大切な活動です。
【与える】認める、褒める、理解する、大切に想う、そういう感情に伴う行動全般など
【受け取る】認められる、褒められる。理解してもらう、大切に想われる、心が温かくなることをしてもらうことなど
ただ、健全な取引ばかりでないのは、お金と同じです。人間関係の問題を自己重要感の取引という観点から見てみると、いろいろな問題の根底に、自己重要感への渇望が隠れていることに気が付きます。
たとえば差別やいじめは、自己重要感を相手から奪って自分のものにするという、とても具体的な目的をもって行われます。理由はきっかけに過ぎません。
また、このブログではよく書きますが、教育を与えるという名目で、実は自己重要感を奪ってしまっているというような脳のトリックには、子供を愛している親自身でさえなかなか気が付けなかったりします。またそれが体育会系のコーチで、それが自分の精神的な収入のすべてをまかなっていたりする場合は、あまりの利益に、もうやめられないほど依存してしまっているかもしれません。
これは書き出すときりがありませんが、個人的には、人間の動機であればたとえば戦争まで含めて、多くのことを違和感なく説明できるように感じています。
自己重要感の奪い合いがお金よりも激しくなりがちなのは、人間の脳にとっては自己重要感が今一番価値のあるものだからということと、それが現実世界ではなく脳内で起こっていることで、物質の奪い合いよりもスケールが大きいからです。
問題はこの世の自己重要感が有限であること
この世界の自己重要感は、ほかの資源と同じように、有限です。また、富と同じように、自己重要感には貧富の差があります。
現代人は、どうやって他人の関心を引こうか?という課題に、朝から晩までかかりきりです。
自己重要感とは「関心」と言い換えてもいいと思いますが、たとえば子育てで子供に関心を与えるためには物理的な時間が必要です。なにかをやっているときにはなにかをやっていないわけなので、子供と一緒にいてもたとえばスマホに気を取られているようなときは、実は関心は与えていません。
また自己重要感はもちろん子供からももらっているわけだけど(しかも親からもらうのと似た高価値の自己重要感)、人間の脳は、当たり前に手に入るものについては、水や空気になかなか感謝ができないのと同じで、対価を払おうとは考えられません。
そういう意味では、自分が子供から自己重要感を受け取っているという実感すらなかったりすることもあって、本当は恵まれているのにそれに気が付けないというような悲しさもあると思います。
インターネットによって、遠く離れた人間の関心まで獲得することが可能になった今は、自己重要感の貧富の差も拡大しています。世界中の関心を集める人がいる一方で、目の前の人から視線のひとつも受け取れないようなケースもあると思います。
PS.足りない自己重要感をどうするか?
と、うんざりするようなことをたくさん書いてしまいましたが、これが人間の脳のデフォルトの状態なので、もしそういうことがあっても罪悪感を感じる必要はありません。みんなそうなので。
わたしの場合は、こういうことに気が付いたときは大変なショックでしたが、たくさん後悔することもあるけれど、でも少なくとも子育てが終わる前に気が付けて本当によかったと思っています。そのおかげで足りない中でもなんとかやりくりすることができてきました。
先ほども書いたように、この世の自己重要感は明らかに有限です。でも、足りないと感じている人の欠乏感は、そもそもイマジネーションの世界ということもあって、完全に満たされることはありません。
これまではいつか自己重要感を増えるという明るい未来を思い描きながら、学校の勉強や仕事やSNSなどをがんばってきました。でも残念ながら全員が満たされることは、なかなか難しいものです。お金の世界でも平等が難しいことは体験済みなわけで、やはり個別に対処していくしかないだろうと思います。
でも人間のすごいところは、すごいスピードで進化することです。
たとえば、昔は殺し合いだったような活動を「スポーツ」と名付け、そういう危ないホルモンが出たりすることを「楽しみ」に変えてしまった。また、映画でも派手に銃をぶっぱなすけれど、ほとんどの人は現実との違いを理解していて、それを映画やゲームの中だけでエンターテイメントとして楽しんでいる。
要するに、自分の脳の構造は変えられないけれど、そして、だから感じ方も変えられないわけだけど、扱い方の選択だけはなんとかなりそうだ…、ということを見抜きつつあると捉えてもいいと思います。
瞑想をすると、たまに欠乏感が一瞬消え去ることがあります。現実はなにも変わらないのに、です。そしてそのときには自己重要感の補給は不要です。簡単ではなさそうですが、でももしずっとそうあれるなら、もう自己重要感を外から補給する必要はないかもしれません。
またそこまでは無理でも、満たしても満たさなくても所詮はイマジネーションの世界…、脳内の電気信号の話に過ぎないんだよな、と少しでも思えたら、欠乏感は消えなくても、なんとか生きてはいける。実家に帰ればごはんは食べれることをどこかで分かったうえで、東京で成功するまで貧乏生活してますみたいな感じを、まあこの世で楽しめる。
と、このあたりが、足りない自己重要感をどうするか?のヒントかなあと個人的には思っています。
↓人を動かすためというよりも、自分の動機の謎を解き明かすために読むのがおすすめ