我慢して抑えても意味がない。感じ方が変わる可能性を探すしかない。
「部下を責めてしまうんです」
「子供を責めてしまうんです」
「食べ過ぎがやめられないんです」
「散財し過ぎてしまうんです」
など、
「YUSUKEさんが勧めるようにちゃんと瞑想をしているのですが、どうしても抑えられないんです、がまんできないんです」
と、なかなかの頻度で相談されます。
わたしは、「たしかにそれらは好ましくないことかもしれないけど、でも我慢して抑えてもほとんど無意味だから、むしろ仕方なくやってしまおう!(ただし意識的に)」「瞑想は抑えるためにやるわけではなく、自分の心を開いて理解するためにやるんですよね」
…と、いつもむしろそれらのエゴを焚き付けるくらいの主義でやっているのですが、
こういうことは生真面目な人にほど伝わらないもので、とても悩んでいます。笑
自分にとって好ましくない習慣は、それにどんなデメリットがあろうとも、自分のエゴ=生存本能は自分を守るためにやっています。
なにかに依存するのも、そうやってたまに頭が空っぽになるくらいリセットしないと脳がもたないからやらざるをえないだけだし、
人を責めるのも、そうやってたまには人の心のお金を略奪して自分のモノにしないと、生物として心の財政が破綻してしまうからです。
それさえも我慢してしまえば、こんどはほんとうに犯罪をおかすか、またはうつになって全活動をシャットダウンするくらいしか生き延びる方法がなくなくなってしまいます。
そんな自分のエゴ=生存本能の境遇を汲み取らずにエゴ=生存本能がやることだけを否定しても、
それはあまり意味がないどころか、自己否定によって失わなくてもいい元気まで失ってしまうだけの結果になりがちです。
もちろん、好ましくない習慣は、たとえばなにかに依存することは自分を落としてしまうことがほとんどだし、また他から奪うのもあとで考えれば後悔するようなことばかりです。
いつもはそうしたい衝動を、それをすることは悪いことだ!という罪悪感を使って必死に抑えようとしています。
社会全体としてもそのためのツールは罪悪感しかないように考えられていて、宗教の多くは罪悪感ベースだし、学校教育でもとくにぼくら日本人はこれでもかと罪悪感を叩き込まれてきました。
なので、ちゃんと教えどおりに罪悪感を感じている生真面目な人ほど、自分を思うようにコントロールできずに苦しんだり、(←罪悪感には非常ベル程度の機能しかないのに…)
または罪悪感を感じない人が許せなくなったりといった、どこか焦点のずれた、本来の問題とはあまり関係のない新たな怒りや不幸が生まれることになってしまっているケースもあると思います。
食べることに依存している人は、心に欠乏感を抱えていることが多いものです。
でもそれを、厳しい理性で抑えようとしたところで、強い食欲の前にはあまり意味がありません。(=「そうしたい」という感情が消えるわけではない)
わたしの生真面目な脳も「並盛り」と思考しているのは間違いないのに、口は独立して勝手に「チャーシュー麺大盛り油多め味濃いめ」と注文し、よく驚きます。
そうすると目の前には注文通りのものが運ばれてくるわけですが、
せめてそれを食べるときには、
「わたしは欠乏感を満たすために今これを食べるんだなあ…」「はあ…これが欠乏感だなあ」とマインドをフルにして感じ、
一口食べるごとに脳内に快感物質が放出されその欠乏感が一時的に希釈されていくのを感じます。
そして腹がいっぱいになるころには欠乏感のことをすっかり忘れていることを感じ、
でもまた数時間後にはいつもの欠乏感がそのまま戻ってくる感じを、再びマインドフルに感じます。
その一連の流れを意識的に体験したあとは、その理由を客観的に考えてみます。
すると、人によってはそれは祖父母が飢えた体験が遺伝しているだけかもしれないし、また別の欠乏感が食欲という形で現れているだけかもしれないことなどにふと気がついていきます。
それらが体験とともに腑に落ち(←おそらくここがポイント)、生存本能=エゴが落ち着くと、無駄な食欲は本当に減っていき、
そして健全な食欲や楽しい団らんのための食欲は残そうなど、自分で選択が可能になっていきます。
この一連の流れが、「マインドフルネス修行 for 過剰な食欲」です。
部下や子供を責めてしまう場合は、相手があることなので、もう少しだけ難しいかもしれません。
自分が部下を責めようとしているとき、自分は心の中のどんな動機でそうやろうとしているのか?
怒りは感情の中でも最もやっかいなものなので、この場合はできるだけ被害を抑えつつも、でもやはり少なくともあえてやろうとはしてみます。
ただそうする前には、必ず瞑想をします。(腕をくんで目を瞑って考えているフリでもすると社内でもやりやすい)
まずは、責めたい感情=自分の怒りを自覚します。
そして次に自分の怒りは否定せずに置いておいて、責めることの意味を考えます。
自分はなにを改善したくて責めるのか?
それは責めることで本当に改善できることなのか?
優しく言うのと厳しく言うのはどちらが実際の改善につながるか?
本当は無意識にも部下が怖いから、先に攻撃することでいろいろな意味で自分を守ろうとしてしまうようなトリックを、自分のエゴは自分に仕掛けていないか?
自分がロビン・ウィリアムズでもそうするか?
自分がダライ・ラマでもそうするか?
人生が最高にうまくいっていてパワフルで絶好調な自分でもそうするか?
など、いろいろなWhat if思考を試してみます。
そして自分は「そもそも怒りたいんだ」という観念が見つかれば、目の前の問題とはほぼ無関係な問題の大元が見えてきて、伝えるべきことと怒りの衝動が健全に分離していきます。
ここまで判明した上でまだ怒っているなら、その場合はもしかしたら意識的に他を責めてみる体験が避けられないケースなのかもしれませんが、
そうだったとしても、いつもの無意識な場合と比べれば大した被害にはならないものです。
あとは大丈夫なときに、自分がなぜそういうときに怒りたくなるのかを、改めて瞑想したりマインドフルに(=エゴを客観的に捉え、まるで2人で脳内で会話をするかのように)思考します。
どんどん過去へ遡り、似たような怒りをリストアップしていくと、自分の奥深くにあった恐れていただけの存在が見えてきます。
こうやって考えてみると、自分を自己嫌悪を使って禁止したり我慢させたりすることは、全くの逆効果であることが分かっていきます。
食べることに依存する人は、自分の内側で問題を解決してしまいたいと考える、たいていは心優しい人です。
また人を責める人は、自分が責められた人(=奪われた人)で間違いなく、人には生まれつき責められやすい人(=奪われやすい人)がいるので、(姉妹兄弟間で扱いが違ったような体験がある人は分かると思うが)、
それは責められやすい人(=奪われやすい人)が両親の苦しみを引き受けたあげたのですが、
でも生命としての器がその苦しみでいっぱいになり溢れてしまったので、それがまた責めやすい誰か(=奪いやすい誰か)を求めているだけの、いわば自然現象です。
そしてそもそも、我慢したり自分を抑えたりする人は間違いなく自分のエゴを客観的に把握しているという意味で、そんな自然現象に対してすでにマインドフルです。
ただいずれの場合も、ただ生命としての限界が来ているだけです。
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もちろんすべてがこんなにシンプルに解決するわけではありません。
問題によっては、一生をかけて乗り越えるようなものもあるかもしれません。
でもぼくらがそういう問題を抱えるのは、ぼくらがだめだからではなく、できるからです。
生命の目的は進化することです。
なぜ進化するのかはわからないけれど、目的は間違いなく進化です。
これまでの野生動物の世界(笑)では勝つことが進化でしたが、これからは問題解決が進化です。
みんなそれぞれの生まれ育ちにおいていろいろ引き受け、その中から未来には要らないであろう古いもの(旧い脳内プログラム)を選別し、一生かけて手放していくのです。
(ネタバレ)
It’s not your fault.